漢民族である少年フーズが父母と生き別れたためにモンゴル族の男シェリガンと共に彼の故郷である内モンゴル自治区の草原で暮らすことになった。
だが少年フーズは父親が投獄、母親は別の男と逃げたというショックのためか失語症になっていた。おまけに懸命にフーズを助けようとするシェリガンから逃げようとばかりするため「モンゴル結び(一見ゆるそうだがなかなかほどけないらしい)」で括りつけられる有様。
5年の刑期を終えて故郷へ帰ったシェリガンが向かったのは5年前に離婚した元妻のバルマと彼女に育てられたシェリガンの弟テングリの住む内モンゴルのゲル(パオ)だった。
シェリガンはバルマに許しを乞うてよりを戻そうとするが散々苦労をしたバルマの心は頑なだ。しかしバルマは他の男と関係を持とうとはしていなかった。
バルマの義弟であるテングリは義姉に対してほのかな恋心を抱いていたのだろう。バルマもそれを感じていたが(もしくは何かそういったことがあったのかもしれない)義弟の「一緒にどこかへ行こう」という問いかけに応えることはなかった。失望したテングリは軍隊に入り兄夫婦を残して草原を去った。
少年フーズにとってはこのテングリとの触れ合いがずっと記憶に残る事になる。
「町の子」フーズの目を通して内モンゴルの自然とモンゴル族の優しさ・強さが語られていく。バルマはいつもフーズを優しく見守っているがフーズが白鳥の卵を意味もなく取って来て割ってし待った時は厳しく怒る。
シェリガンは家畜を狙う狼を追うが命を取る事はせず、懲らしめると自然に返すのだ。テングリは旅立つ時、愛馬をフーズにあずけて行った。
物語はシンプルで力強くしっかりと訴えかけてくる。最も天に近いというモンゴルの草原が素晴らしく元・夫婦と弟の人間関係をモンゴル結びにかけて表現していく。このシンプルな美しさと言うのが素直にこちらに伝わってくる映画だった。
そうして思ったのは主人公の少年が何故漢民族なのか、ということ。彼は綱で縛られて内モンゴルへ連れてこられ、最後はなんとも悲しい事に父親の刑期終了で再びもとの町へ戻されてしまうのだ。今では心底愛する人たちから切り離されて。
このとんでもないラストは一体なんなんだろう?
この作品は内モンゴルの監督・出演者・舞台で作られているが出資は「国」からのものらしい。無論中国=漢民族の観客を意識するだろう。
映画の登場人物は舞台であるモンゴル語を話しているがナレーションは漢民族の少年の言葉・中国普通語=漢語で話される。漢民族である少年がいきなりモンゴルへそれも否応なく連れて行かれ、また戻される事で観客の漢民族は自分が夢の中でモンゴルの草原へ暫し行ったかのような感覚に襲われてしまうのではないだろうか。
また別の民族である自分も何となくそのような不思議な体験をしたように思われた。それくらいこの映画の中のモンゴルの草原とパオ(ゲル)に憧れてしまう。
何となく自分もモンゴル人のように馬を駆けさせることができてしまうようではないか、「町の子」であるフーズがモンゴルの子供達に混じって馬の競走をして優勝したラストシーンのように。
つまり「町の子」フーズは漢民族であるが他のすべての国の観客の目でありいきなりモンゴルへ連れて行かれてしまう代行者なのだ。
映画を観終われば自分の国にいるはずなのでフーズはいきなり元の位置に戻されてしまったのだった。「ああ、またモンゴルへ行って優しいバルマと馬達に会いたいなあ」と思わせながら。
とにかく内モンゴルへ行きたくなってしまったんだから、間違いないと思う。
それにしても最近はちょろちょろとモンゴル辺りのドラマなんぞ観ていたんで結構懐かしい。
結婚衣装なんかも「康煕王朝」に出てきたモノを彷彿とさせるし(あの髪飾り印象的!愛し合うのも草原の中で、というのもありましたな)
しかしここでまたひとつ。中国ドラマではモンゴル人も漢語を話しているのでモンゴル語というのは聞く機会が殆どなかった。
ここで聞いていると漢語よりは韓国語の響きに近い気がします、何となく。
天上草原の世界監督:マイリース/サイフ (ご夫婦だそうです) 音楽: サンパオ 出演: ナーレンホア ニンツァイ グアルスーロン アユンガ トゥメン
2002年中国(内モンゴル自治区)
訃報
サイフ監督逝去
『天上草原』の共同監督、サイフさんが9月1日夜、肺ガンのため、北京の病院にて逝去されました。享年51歳。遺作は、マイリース監督と撮影中だった『東帰黙示録』。
謹んでご冥福をお祈り致します。
posted by フェイユイ at 22:48|
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