2005年09月26日

「天龍八部」を観終えて

「天龍八部」すばらしいドラマでした。

「射[周鳥]英雄伝」を観た後なのでどうしても比較してしまうのですが、全体的には明るいトーンのあちらに比べ、こちらはどーんと重いものがあります。
蕭峯だけが主人公だったら、苦しかったかもしれませんが、全体のストーリーを明るい美貌の貴公子・段誉が引っ張っていくのでそれが最大の救いです。と言っても段誉自身も安穏としていられるわけではなくて好きになる女性が次々と父親と愛人の子供であるという何とも悲しい運命に翻弄されるわけです(これが最後にどんでん返しとなるサプライズも用意されてるわけで盛りだくさんですね)

段誉の異母妹との恋、という倒錯に始まり、物語にはたくさんの倒錯、してはならない恋、許されない恋、信じられない恋、などが様々なバリエーションで演出されていきます。ちょっと思い出せるだけでも、父親の数多くの女性との不倫(段正淳)夫を蔑んで色々な男を誘惑する人妻(馬夫人・康敏)マゾヒズムとしか思えないほどの自虐愛を捧げる男(游担之)いじめることが愛の表現?(阿紫)(←しかも半端ないじめじゃない)一人の師兄を争って死闘を繰り広げる二人の女(天山童姥+李秋水)浮気する夫への意趣返しに世の中で最も醜く不潔な男と寝てやると考え実行した人妻(刀白鳳・段誉の母)さらに言えば譚公・譚婆の間にも趙銭孫がいるし、王語嫣に対してストーカー行為の段誉。暗闇の中で突然裸で抱き合わされてお互いの顔も知らないまま恋に落ちる虚竹と西夏国の姫と言うのも凄い。また宗教的観点から言えば、出家の身でありながら女性との間に子供をもうけた高僧(玄慈)というのは最も許しがたい悪行かもしれない。
あまりにも尋常ではない恋愛関係が横行しているので小さい事はそんなに気にならなくなってしまう。

この物語の最も重いテーマは蕭峯が背負っているものだ。愛しい女性を我が手で殺し、しかも彼女だけしか愛せない、愛さないと蕭峯は言う。その思いは後になるほど強くなっていくようだ。
そして蕭峯がどうしても逃れられない枷は、二つの違う民族にそれぞれ愛着を持ってしまった苦しみだ。
漢民族と信じて生きてきて漢民族の言葉・武芸を学んだのにある日突然お前は野蛮な契丹人だと言われる。最初は否定する蕭峯だが与えられた丐幇の幇主の権威を剥奪され自分は契丹人だと認めていく。この辺りの蕭峯は我が身をこのような不孝に陥れた者に対する復讐心で恐ろしい。心優しい阿朱というこの上ない伴侶を得てもその復讐心は消えなかった。
が、愛する阿朱を自らの手で殺めてしまい、残酷な性分の阿紫を見て、またそれから蕭峯は多くの略奪や殺傷を体験するうちに、彼の心は変わっていく。そして契丹に混じれば漢人の殺生には加担できず、漢人の間では我は契丹人だと認識する。二つの国の間に戦争があってはならないと考える蕭峯はとうとう契丹の皇帝と反駁してしまう。やっと同胞の下に帰れたのになぜ彼は漢人の味方をしてしまったのか。今度は同胞から「奴は本当に契丹人なのか」と言われてしまう。
義兄弟の契りを結んだ皇帝・耶律洪基はその蕭峯の平和を求める心がついに解らなかった。ドラマでもその心情は表現されていたが、原作では文章として書かれているのでより皇帝の動揺を知ることが出来る。蕭峯は契丹と宋とどちらのために働いたのだろう、なぜこのような手柄をたてながら自害したのだろう。
蕭峯がそれまでの人生を思い、もう互いの殺戮のために泣き悲しむ家族が出ないことを祈り、そのためには自分の命を捧げると考えた。命を懸けて愛する人ももうこの世にはいない彼には命を投げ出す事で戦争が起きないのならそれでいいと決めたのだ。

ドラマではなぜかなかったのだが、原作では雁門関に行く前に蕭峯は女真族の完顔阿骨打と会う。彼もまたかつての親友・蕭峯を救いにきてくれたのだった。女真族は契丹人とは敵対関係にあるため契丹人のことは憎んでいる。が、彼は親友・蕭峯のことを忘れず、悪どい遼国でどんな目にあっているやらとずっと心配していたと言うのだ。案の定だ、と完顔阿骨打は言い、「一緒に長白山に帰って、狩をし酒を飲んでのんびり自由に暮らそう」と誘うのだった。蕭峯がそう出来たのなら!しかも彼の側にかつてそう望んだように阿朱がいたのなら、彼はそのまま完顔阿骨打と逃げてもよかった。何もない貧しい暮らしでも蕭峯は幸せになれたのではないか。が、阿朱はもう側にはいず、彼はそうしなかった。

蕭峯は最後まで契丹人であり続けた。他の民族に混じって契丹人を討つことは考えられなかった。だが、他の民族にも交わりを持った彼は他の民族をも愛してしまった。
このことは蕭峯にとって不幸だったろうか。

蕭峯の運命の過酷さは愛する人をどうしても手に入れられないと言う所にもある。赤ん坊の時実の両親を亡くし、父は生きていたのだがやっと再会できた時、父は出家して二度と会ってくれなかった。育ての両親は実の父に殺された。長く身内としていた丐幇たちからは追い出され、教えてくれた少林寺からも追い立てられる。愛する阿朱は死に、同胞として頼った遼国の皇帝とは次第に心が離れていった。蕭峯を最後まで見放さなかったのは義兄弟の段誉・虚竹と女真族の完顔阿骨打だけだ(ドラマではカットされていたので段誉・虚竹だけとなる)これに曲がった愛情を持つ阿紫は蕭峯が嫌っているため入れにくい。
段誉・虚竹ともに美しい女性と結婚して幸せになったため、余計に蕭峯は死への決断ができたのかもしれない(これはちょっと甘すぎな考え?)

長くなるが、もう一つ、ドラマと原作が微妙に違う箇所があった。ドラマでは段誉たちが蕭峯を助けに行く途中で慕容復の悲しい末路を見るのだが、原作ではこれがラストシーンとなっている。優れた豪傑が死に、夢を追った哀しい貴公子が狂ってしまうこの場面で終わる事で原作はこの世の儚さを表現しているのだろうか。(その様子はむしろ幸せを感じているようだった、とある)
ドラマは阿紫が蕭峯を抱え、あの壮絶な雁門関の崖を飛び込むところで終わっている。ドラマの始まりは蕭遠山夫婦が幼い蕭峯を大事に抱えて旅をする所から始まっていたと思う。
漢人と契丹人が挑みあうこの雁門関でドラマが始まり終わっているのだ。全ての悲劇はこの崖から始まり終わったとドラマでは訴えていたのではないだろうか。
posted by フェイユイ at 21:45| Comment(8) | TrackBack(4) | 天龍八部 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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