2006年04月20日

「GERRY ジェリー」ガス・ヴァン・サント

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この映画を観て正直どのくらいの人が何かを感じるんだろう。何かを感じた人が凄くて感じなかった人が間違っているわけではない。

ただ私はこれをのめりこむように観てしまった、と言うだけだ。二人の若者が乗ってきた車から下りてひたすら歩き続けるだけの映像。私がそこから何か掴み取ったとは言い切れない。もしかしたら作者の訴えたい事とは違うものを感じているのかもしれない。

一つ言えるのは私は他の人と比べて極端に閉じ込められた生活をしていると言う事。殆ど外を歩く事のない人間にとって果てしなく歩き続けるという設定はそれだけでも意味のあることなのだ。

物語の始まり。
何もない曲がりくねった道を一台の車が走っていく。静かな音楽。酷く物悲しい気持ちになる。どこに行くんだろう。私はここですでに動悸を抑えきれない。どこかに行くというのにうれしいと言うより苦しい気持ちになる。でもどこかへ行けるのだ。広い空と大地を見ながら。青い空には白い雲が流れている。車には人影が二つ映る。一人きりではないようだ。
カメラが前に来て若い男が二人座っているのが見える。表情はない。車は泥を跳ねたらしく窓ガラスが汚れている。夕日(朝日だろうか?)が二人の姿をぼやけさせる。

ガス・ヴァン・サントの作品「グッド・ウィル・ハンティング」でも主人公がウィルが乗り物に乗っていく場面が印象的であった。「マイ・プライベートアイダホ」でも旅行く場面、主人公が道の上で気を失う場面が記憶に残る。私にとって彼の作品は移動しているイメージがある。

二人は突然車をとめて下りる。何故なのかは判らない。二人は「荒野の小道」という看板を通り抜ける。
二人が歩きだした場所はだだっ広い潅木だけが続く土地だ。あまり快適層には見えない。しばらく行くと親子連れに出会う。二人は挨拶して「軽装だな」と馬鹿にする。しかしそう言う二人もそれぞれ1本の飲み物らしきものを持つだけで普通の服を着ているだけだ。

一体二人が何をしに来たのか、何故そこで車を降りたのか、全く説明はされない。二人はどうやら道に迷ったようでハイウェイを探し始めたようなのだが、どうしてそういうことになったのかもわからない。
二人は食料も飲み物も持っていない。何日か歩き続けるのだが、何度か飲み水の事を言いはしてもそれほどその事で困っているようではない。それも不思議だ。
ひたすらに歩き続け何かを捜し求めているのだが、どうしても探しきれない。だが二人は少しだけ言い合っても苛立って罵ったり殴りあったりするわけではない。少しだけ戸惑っているだけだ。
そうしてどこまでも歩き続けるのだ。風景は岩だらけのはげ山が繰り返し続くばかりで変化がない。突然怖くなる。ここは死の国なのではないか。

二人は殆ど同じくらいの背丈である時は並んである時は前と後ろに離れて歩いていく。二人はどちらも「ジェリー」と互いを呼んでいる。そして「ジェリー」と言う言葉は失敗、しくじる、と言う意味で使うらしい。

三日間飲まず食わずで歩き続け倒れこむ。
一人(ケイシー・アフレック)が「もうだめだ」と言い、もう一人(マット・デイモン)に手を差し伸べる。マットはケイシーの首を絞める。
ケイシーは動かなくなった。
マットは立ち上がり再び歩き出す。するとすぐそこにもうハイウェイが見えているではないか。マットはある車に乗せてもらいそこから走り出す。

多分答えはないんだろう。
人それぞれに答えを出せばいいのだと思う。例えばこれは人生の苦しみを表現しているのだと言うように。
私はごく単純に「これはガス・ヴァン・サントが作ったのだから、ゲイの気持ちを表しているのだろう」とだけ思った。
若者二人はとても仲良く見えるし互いを思いやっているようだ。だが(単純で申し訳ないが)仲がよくても二人が歩く道は標がなく潅木だけが続く物寂しい道のりだ。
とは言え、私自身がこの映画に深く共鳴できたのだからそれだけではないのだ。
雲が走っていく空、二人が歩く音、焚き火の場面、何も見逃したくなく観続けた。泣きたくなった。

昨日観た「バガー・ヴァンス」と正反対の映画ですね。

監督:ガス・ヴァン・サント  脚本・編集:ガス・ヴァン・サント、マット・デイモン、ケイシー・アフレック 出演:マット・デイモン、 ケイシー・アフレック 2002年・米

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posted by フェイユイ at 23:31| Comment(3) | TrackBack(0) | マット・デイモン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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