2006年07月18日

「ジェロニモ」再観賞

ジェロニモj.jpg

「ジェロニモ」再観編。以前の記事はココ→「ジェロニモ」ウォルター・ヒル

ここではマット・デイモンについて多く語りたい。

マットの魅力はその声にもある。自身の映画では何回となくその語り手を担当している。
落ち着いた低い声で発音が綺麗なのだろうな、と思わせる。

この映画でのマットはまだ21歳の少尉ブリトン・デイビスを演じている。何とも初々しい新米仕官で彼自身も同じくらいの年齢だと思うがまだ子供のような表情をしている。
「青春の輝き」の意地悪い少年とは全く違う役柄であり、追い詰められていくアパッチ族に同情し、ジェロニモの威厳に感動する様子が共感できる。
そしてそんなアパッチ族に誠意を持って接するチャールズ・ゲートウッド中尉 の勇敢な態度を尊敬し自らも行動を起こす姿にも賛同してしまう。

アメリカ人の役者なら馬に乗れなければいけないだろうか?以前のように西部劇が多かった時代なら当然かもしれないがボストン生まれのマットでは、やはり訓練したのだろう。
この後も彼は「すべての美しい馬」で乗馬姿を披露する。「ブラザーズ・グリム」で颯爽と乗っていられたのは当然だ。

マット・デイモンの髭と言うのはなかなかお目にかかれないが、この映画の中では数箇所髭が伸びている場面がある。子供顔に髭をつけたようでほぼジェイ・チョウの髭顔と同じ状態であるのがおかしい。中尉のジェイソン・パトリックの方は凄く決まっているのが対照的。

マット以外の話も少し(笑)ライ・クーダーの音楽が印象的。ジーン・ハックマンは控えめな役に甘んじていたが、ロバート・デュバルのアル・シーバーが効いていた。
ジェロニモの ウェス・ステュウディの素晴らしさ。文句はつけられないのではないかな。

それにしても「シリアナ」でも感じさせられた他の民族への介入と言う問題。ここでのネイティブには石油と言うような交換条件があるわけでもなく、広大な土地をなぜ奪われるのか、弱きものと言うのは消え去るしかないのか。
ゲートウッド中尉が言った「(聖書に書かれている)“世界が得られても魂が奪われるなら意味はない”」という言葉は確かだ。
だが彼の言う「今この国は生みの苦しみを味わっているのだ」と言うのは仕方ないにしても白人側の言い分だ(思わず同意しそうにもなったけど)それも歴史の一部分だと言われればそうなんだが。

歴史はすでにもうそこに存在するもののことだ。だけどそういう話を知って何とかできないのだろうか、と考えさせてくれる。

ジェロニモとゲートウッド中尉はかっこよさも見せてくれる。ジェロニモがまだ遠い位置にいる追っ手を傷つけずに水がめだけ撃ち壊したシーンがかっこいい。昔はこういうかっこいい西部劇の場面と言うのがたくさんあったように思う。


posted by フェイユイ at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | マット・デイモン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「アマロ神父の罪」カルロス・カレラ

アマロ神父.jpgアマロ神父2.jpg

カソリックに対して様々な提議、反論、怒り、笑いを描いた映画を数多く観てきたように思う。
それなのに依然として問題があり解決されつつあるのかないのか、今ひとつ判らない。とは言え長い年月をかけて人々の心に宿っている宗教と言うものを簡単に変えれるものでもないのだろう。

主人公アマロ神父は将来を期待される若者である。人々は皆彼に好意を抱くようである。
信心深い少女・アメリアもまたアマロ神父に心惹かれた一人だった。彼女はそれまで仲のよかったボーイフレンドの態度に失望し、聖職者であるアマロ神父に恋をしてしまうのだ。美しいアメリアの熱心な愛情表現にアマロ神父はついに一線を越えてしまう。

センセーショナルな内容にメキシコ・アメリカでは上映禁止を求める抗議が起きる騒ぎとなりそれ以上に興行記録を作る大ヒットとなったという問題作なのだ。
カソリック教徒でない目から観ればよくある話とも取れるし、聖職者でなくともまだ無知な少女を妊娠させ且つ己の保身のために堕胎をさせようとする男の身勝手も何ともやりきれないものだ。
その少女にしても最初は彼女自身が付きあっているボーイフレンドが世俗的でつまらないと考え、神父の清らかさに恋をしてしまうというのが何とも情けないものなのだ。つまりまだ男と言うものがどういうものなのか判らずにいてどうなるのかも予想していなかったわけで。聖職者である人を普通の人にしてしまったらもう好きではいられない気もするのだが。
ここで彼女は妊娠してしまうのだがこれもカソリックが避妊を認めていないわけなのだろう。そして神父は結婚を認められていない。堕胎も禁じられているためにもぐりの医者にしか頼めない。これでいいのか!という映画なのでありましょう。従って日本に住みカソリックでない者にとっては謎?のような物語、酷い男と馬鹿な女の物語、となってしまう。
とは言え、アマロ神父が破門を言い渡された別の神父のように「神だけを信じているのだ。教会ではない」と言う態度で毅然と彼女と結婚する為に神父の衣を脱ぎ捨てて欲しかった、と思ってしまう。
「今までの勉強がフイになる」と言って彼女をもぐりの医者に渡し、また神の言葉を話す彼の存在とはナンなのか。
ということで頭を悩ましたくもない話なのだ。

そういったカソリックと言うものに対し問題を投げかけた映画なのである。
罪を負ったまま神の言葉を話すアマロ神父に背を向けて去っていくベニト神父の姿が「どうしようもない」というメッセージであるのか。

監督:カルロス・カレラ 出演:ガエル・ガルシア・ベルナル、サンチョ・グラシア、アナ・クラウディア・タランコン
2002年メキシコ

追記:人気の高いガエルはこの嫌な神父役がまたよかった。独特な個性の美貌だが見るほどいい顔に思えてくる。本当に上手いし、笑顔でころりと参ってしまうよな。
質の高い面白い作品が多いのでこれからも見ていこうと思っている。楽しみだ。
アメリア役のアナ・クラウディア・タランコンも清楚なイメージの美少女が似合っていた。
また他の神父たち、アメリアの母親、不気味に信心深いおばさんなどが上手く脇を固めていて見ごたえのあるドラマに仕上がっていた。
他の土地でカソリックでない者が思う以上にこういう映画を作るのは大変な勇気と決断や努力が要るものなのだろう。
カソリックの負に部分を見せ付けられ続けている部外者にとっては「一体何故」というしかないのだが。
新しいローマ法王は一層戒律に厳しい方だそうだが、こういう部分(避妊とか神父の結婚とか堕胎とか)は改善と言う事ではなくむしろ「悪の道」ってことなんだろうか?
posted by フェイユイ at 00:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 中南米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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