2006年05月28日

「康煕王朝」陳道明/斯琴高娃 第24・25集

周培公は図海を従えて王輔臣に大砲でもって攻撃した。さらに攻撃を進める図海に周培公は「今、いい思いをしても平和になれば歴史は我々を殺戮者とみなす」と言い過剰な殺戮を止めた。図海は周培公の深い考えに感心して従う事にした。
周培公は王輔臣に単身会いに行く。王のもとでは彼の息子が戦死したと思われ喪に服しているのだった。だが、吉貞は生きていて父親に再度朝廷への帰順を願い出る。ついに王輔臣も折れて敗北を認めた。周培公は王に感謝するのだった。

周培公が王輔臣を帰順させたと聞き、康煕は喜ぶが大臣は「これでは周培公が力をつけ朝廷に謀反を起こすかもしれません」と忠言する。
康煕は仕方なく周培公を北京へ戻すことにした。

朝廷からの命を受けて周培公は「こうなる事はわかっていた」とつぶやく。呉三桂討伐の名誉は図海に預け周培公は帰京することになった。
こうして康煕皇帝は長い年月をかけて三藩を平定したのであった。

康煕は平和になった祝いに大臣らに行痴大師が長年かけて品種改良した米を配る。収穫が3倍になるという米であった。
これで富国強兵することができる、と康煕は考えるのであった。

台湾の鄭施琅が数万の兵で穆将軍を倒し2県を占領した。穆将軍は朝廷に書を届けるよう配下に申し渡す。その男は穆将軍が施琅の攻撃を受け占領された、と呼ばわりながら走り出す。
その途中で海関総督の東亭は男を休ませ代わりに大声を持つ男を数人「穆将軍が鄭の攻撃を破り大勝した」と叫ばせながら朝廷に書を運ばせた。

康煕は大勢の王子たちと食事をしようとしていた。もうすぐ盛京へ旅立とうとしているのだった。
皇子たちにそれぞれ留守中の注意を与えていると穆将軍からの書と東亭からの上奏書が康煕の手に渡された。それを読んで康煕は気分が悪くなってしまうのであった。

第一皇子を伴って康煕は盛京へと旅立った。途中で康煕は臣と皇子に東亭からの知らせを教えるがここで皇帝が騒いで帰京すれば余計に民も敵もそれに気づいてまずい事になる。ここはこのまま旅を続けようということになった。
盛京で康煕は蒙古王を帰順させようと考えていた。そして盛京に派遣していた周培公を訪ねた。が、南方育ちの周はすっかり身体を壊して病の床についていたのだった。
康煕は周培公を再度起用したいと言い渡した。

活躍すればしたで疑いをかけられてしまう周培公も辛いが一時も気が抜けない皇帝は大変です(気安いな)
オクテと思っていた康煕、いつの間にか子沢山に姫はまだ他にいると言う事だからなかなかやりますね。しかしこの可愛い王子たちも結局権力争いに巻き込まれていくのかと思うと気が重いです。やはり庶民が一番です。

それにしてもスマラグや太皇太后が出てこないと魅力半減ですなー。康煕がスマラグにぴしゃりとやられるところが一番好きなんですが。お婆様はまだご健在なのでしょうか。

周培公は慣れない氷の土地で命を縮めてしまう。何よりも皇帝から疑いをかけられたことが辛いことだったのだ。再度起用する、という皇帝の言葉にももう春まで持たないと答えるのであった。代わりに周培公は「姚啓聖」という男の名前を教える。無名だが智恵を持つと。
そして康煕に「絵を描きましたので持ち帰って見て下さい」と言う。戻ってその大きな絵を広げてみるとそれは広大な大清の地図であった。康煕は感動を覚える(見てるこちらも感動した)周培公は10年かけて古今東西の歴史をこの地図に描いたのであった。
康煕がそれを見ている間に周培公は命を落とした。

康煕は臣を集め台湾をどうするか閣議する。ある者は捨てろと言い、ある者は捨ててはいけないと言う。皇子インスーは台湾を攻撃する事を望んでいた。
台湾には福建、広東、浙江の三省の出身者が多くそこは清の食料庫・金庫なので切り捨てるわけにはいかないというのだ。
康煕は台湾よりも蒙古のグールダンはもっと恐ろしい、と感じていた。

康煕は周培公がいい残した姚啓聖を捜す。彼は格下げを繰り返し田舎の厩番に身をおいていた。
康煕は彼を捕らえさせて牢にいれ食事は与えるが何も話してはいけない、と言い渡す。姚啓聖は食事だけでなく本をよこせと叫んだ。

蒙古王の間でも戦争が繰り返されていた。土謝図はグールダンに攻められ王は傷つき姫に復興を託した。皇帝に頼むのだと。


posted by フェイユイ at 21:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 康煕王朝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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