
ふふ、見ましたDVD。よいですねー、ギドクワールド。もうその世界が好きなんで私的にはもう感想もいらないんですがwやはり語りたい(どっちなんだ)
予想を大きく裏切ったのはセリフが多かったwキム・ギドクとしてはってことですが。中文解読に不安があったのですが、途中からはもう何も気にならなくなりましたねえ。びしびし伝わってきて。
さてさてものすごくネタバレです。その上で、どうぞ。
物語は3章から成り、第1章が「バスミルダ」インドの伝説の娼婦を真似、援助交際をして男たちから金をもらっているチェヨン(ソ・ミンジョン(ハン・ソルム))と、彼女を心配し、彼女と付き合う男たちを嫌悪するヨジン(クァク・チミン)の恋にも似た友情を描いている。インタビュウでチミンは「スタッフや私たちはこれを同性愛とは考えてません」という意見のようで、確かに韓国人は日本人と違って同性間での体の触れ合いが多いということなのでしょうが、フランスにも住んでいたキム・ギドクが全くそういうことを考えなかったとは思えないし、これは監督さんとしてはそういう雰囲気を出して外国の皆さんに大いに関心を持ってもらおうと思いなすったに違いない(しかしなぜそんなことにそうもこだわるかな私w)
ま、いいんですが「青い門」のエントリを読んで下さった方ならお分かりのようにもう最初で惹き込まれましたとも、ええ。大好きです。特にチェヨン(ハン・ソルム)の笑顔はかわいらしくって確かにヨジンが彼女のことを愛して自分のものだけにしたいという気持ちは痛いほど解ります。それだけにもう早い段階で彼女が飛び降りて死んでしまった、というのは、ショックでした。ストーリーを全く知らないまま見ていたので「ああ、この二人のこの甘い関係がずっと続くといいな」と思い始めたやさきだったので。しかもチェヨンはただもうヨジンが自分を助けてくれるのだ、ヨジンがいれば何も心配ないのだと信じきっているのです。ギドク監督のストーリーはいつも何かを示すための寓話であるのですが、ここでも少女は友人を愛し信じているという証拠のために飛び降りてしまう。それが解るため、ヨジンは血まみれになりながらもチェヨンをおぶって病院へ運び自分の処女を失ってまでチェヨンの希望をかなえようとするのですが。
第2章「サマリア」サマリアというのは異教徒により汚された土地という理由でユダヤ人に排斥を受けた、聖書にでてくる地名。だがサマリア人は信仰深き「よき人」として聖書では表される。キム・ギドク監督はキリスト教信者ということでこのモチーフが選ばれたのであろうか。最愛の友人を失ったヨジンは、それまでチェヨンを買った男たちとセックスした後でチェヨンの金を返すという行動を起こす。あれほどチェヨンを抱く男たちに敵意を持っていたのに。だからこそヨジンはもう何の迷いもなく男たちと逢瀬を重ねていく。
第3章「ソナタ」このソナタという意味はどこをさすのだろうwこの第3章がソナタということか映画全体がソナタなのだろうか。などといってもソナタの何たるかをわかってるわけではないので不安定な意見ではあるが、ソナタというのが提示部・展開部・再現部を表しているとするなら、全体的な表現が「ソナタ」ということにならないか。またソナタはその提示部で明確な対比を示すというならまさにヨジンとチェヨンは対比を示している。第2章はまさに展開していくわけだし、第3章で物語りは終結へ向けて安定と解決を目指していく。
娘の行った売春という行為で引き出されるパパ・ヨンギの苦しみはなんという勘違いか。パパの思う苦しみとヨジンのとった行為は全く違う次元のものだ。ヨジンはパパが殺人を犯すほど苦しんだ意味合いと違うところに立っている。この物語はだからこそ怖いのだ。
それにしてもキム・ギドク監督はいつも丁寧に物語の説明をする人だ。その解りやすい説明は他に例がないといっていい。几帳面な人なのだろうか。時にはくどいほどである(その解りやすさが好きなんだあ)
パパと娘が乗っている車の前進を阻止する石ころ。それはパパが娘のために男たちを襲った石ころでもある。それを丹念に取り除くヨジン。車は再び走り出す。問題を解決して人生を進まねばならないのだ。ヨジンはパパが自分を殺す夢を見る。パパはまさしくそう願ったのだろう。が、実際のパパは、ヨジンとの別れに車の運転を教えるのだ。ヨジンは練習し、でこぼこ道、ぬかるんだ道を警察に連れ去られるパパの後を追って運転する。が、途中のぬかるみにはまり込んでしまう。ヨジンの人生は始まったばかり。恐る恐る運転をし、パパの後を追うが、父は遠く離れていってしまうのだ。
参考資料http://www.denen.org/keishiki/c07.html
ラベル:家族








キム・ギドク監督はかなり多くの映画を作っていらっしゃるわけですが、貪欲に見たくなってしまいます。ものすごい働き者の監督さんなので最新作「空き家」の後にすでに次の作品にとりかかられてるようですが、待ち遠しいですねえ。
今度はどんな世界を見せてくれるのでしょうか?この映画「弓(仮題)」には「サマリア」で愛らしい笑顔を見せてくれたハン・ソルムもでていることだし、期待は膨らみますね。
実は私も、レスリー・チャンで中華〜アジア圏映画にハマったのですが、途中から日本映画にシフトし、今はボチボチ・・・という感じの浅いファンでありまして、フェイユイさんの中華電影〜韓国映画への造詣には足元にも及びません。
そんな私の勢いだけで書いてる^^;;「サマリア」へのTB及びコメント、本当感激であります! それにしても本当にキム・ギドクの映画は問答無用な引力を確かに持っていると思います。まだ未見の作品が多いので、フェイユイさんの記事を参考にさせて頂きながら、一つ一つ味わいつつ、また彼の作品についてつらつらと思うことなど書いていきたいな、と思っております。
はじめてお邪魔するのに、長々と失礼しました。ご迷惑かと思いますが^^;; 今後ともよろしくお願いします。
いやもうshitoさんにそんな風にいっていただけるなんてお恥ずかしい限りです。ただただ好きで書き飛ばしてるだけですので(汗出てきました)私の記事を参考にされるキム・ギドクが気の毒(ううシャレではありません)ですが、そう言っていただけるのはうれしいことです。これからもよろしくお願いします。
TBありがとう。
僕は、河原のシーンは、ヨジンの夢ではなく、父親の「妄想」あるいは、過去への決着のつけかたの「仮想」だと思いました。
そして、父親は、思い直して、自分が刑務所に入る以後のことを思い、教習の道をつくる。
父親の行動をヨジンが知るのは、このあとだろうと、思います。
なるほどー。考えさせられますね。キム・ギドク監督の映画は観る人によって色々考えられる深さがあると思います。
女性と男性でも変わってくるのでしょうね。
私はやはりヨジンの方から観ていました。
娘が父から別れるというだけでなく、父が娘から離れる儀式でもあるのでしょうね。