2005年08月31日

「弓(The Bow)」Uキム・ギドク

さて、あてどない旅は続きます。この映画は単純に考えるなら「サマリア」のもうひとつの物語なのでしょうか。少女との結婚を考えている老人は単に娘を見張っている父親なのかもしれません。
少女の前には色々な男たちが訪れますが、少女自信は決して男たちを嫌ったり恐れたりはしていないのです。老人は好色な目で少女を見る男たちを理不尽にも矢で射るのです。
だが不思議なのは老人が大事なはずの少女に向かっても「占い」と称して矢を放つ事です。一つ間違えば命さえ落としかねない行動です。
その時昨日言ったロメーン・ブルックスの「陵辱された女」の絵を思いだしました。この絵は美しい痩せた若い女性が海辺と思える場所で杭に裸で縛られているのです。反対側に何か醜悪な感じのする侏儒がまさに女性に向かって矢を放った瞬間を描いているものです。女性は恐れるでもなく何か仕方がない、とあきらめた表情です。侏儒が何を示しているのかは博学な澁澤龍彦さんも「何の象徴であろうか」と言われているので私にはこの絵が何を示したものかはわからない。ただ、キム・ギドクの「弓」を観てこの絵を思い出してしまった。やってくる男たち、特に少女が好意を持った若者に対して激しく嫉妬する老人はこの侏儒そのものではないか。
少女に対して矢を放つ事も少女はずっと甘んじてきたのですが、決して当たり前の行為というわけはないはずです。少女は老人に対して今まで疑問というものを持たなかったのに、若者に恋をした瞬間から老人がただの醜い存在になってしまうのです。
老人は狼狽します。お風呂にもいれ、花嫁道具もそろえてやった娘が反抗するとは。
老人は毎日一つずつ消していたカレンダーの日付を慌てて数日まとめて消してしまいます。早く結婚の日が来るように。夜の空に向かって弓で音楽をかなでもしますが、それは今までの音とはまったく違うものでした。

ここでまた一つ考える事があります。キム・ギドクは男性ですから、普通に考えれば、年齢もかなり老年に近寄っていっているわけですし、確か娘さんがおられるはずなのでごく当たり前にに父親よりに見てもいいはずです。だけどキム・ギドクの映画はいつも女性の側に目があります。ここでも見ているのは少女の目だと感じます。少女が老人に頼っており、男たちと仲良くなり次第に老人を疎ましく見てしまうのです。
キム・ギドクには非常に厳しい父親がいて彼は父親の存在を恐怖と憎悪で見ていたと書いています。キム・ギドクが父親でありながら、同時に少女の立場でもあると感じるのはおかしいでしょうか。私にはどの映画を観ても彼は少女の目で見ている、と感じさせられるのですが。
posted by フェイユイ at 00:03| Comment(0) | TrackBack(0) | キム・ギドク | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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