2005年09月14日

西太后の紫禁城第28集 結婚

何だかとても興味深い一話でしたよ。

元六さんの家に隠れていた茶水章(章徳順)さんは「とても吟児を置いては逃げられない」と渋る栄慶を説得して危険を顧みず紫禁城に戻って吟児に会いに行く約束をする。

かつて使っていた通行証を見せて茶水章は紫禁城に入り狭い建物に閉じ込められた吟児に会いに行き、小さな隙間から声をかける。栄慶は無事で日本に渡ることを伝える。吟児は彼の子を死なせてしまった、と泣く。茶水章は栄慶が何年でも吟児を待つと言っていると伝えた。そこへ李総監がやってきて容赦なく茶水章を捕まえてしまった。

茶水章は皇太后の前で申し開きをする。李総監は掟により撲殺を勧めるが皇太后は殺すには忍びない、と今度は吟児を呼び出す。お前たち二人は互いを思いやっている。結婚するがいい。こうして宦官である茶水章と吟児は結婚する事となった。

部屋で茶水章は李総監はじめ多くの者に囲まれて花婿の衣装を着せられていた。「花嫁が着たぞ」茶水章はしきたりを踏んで結婚するように、と花嫁の輿に向かって弓矢を射ることを言い渡される。しぶしぶ吟児の輿に矢を射る茶水章。続いて花嫁は鞍を乗り越え、繁栄を願って火を飛び越えろとはやしたてられる。ためらう吟児を茶水章が抱きかかえて火を通りぬける。

こういう儀式があることを私は知りませんでした。当ブログのキム・ギドクの「弓」で老人が結婚相手の少女に弓矢を射るシーンがあるのですが、私は単に男性的性の表現だと思っていたんですが、結婚の意味があったのですね。また、日本の「潮騒」で女性が男性に火を飛び越えて来いといわれるシーンがあるようですが、あれも結婚の意味があるということなのでしょうか。

嫌がる茶水章と吟児を見世物に李総監らは結婚の儀式を続けてはやし立てる。とうとう吟児は気絶してしまった。

二人きりで部屋にいるのに気づいた吟児は茶水章が近づくのを怖れた。茶水章は仕方なく外に出る。吟児は意を決して茶水章を部屋に入れる。そして叔父さんとして仕えさせてください、と頼む。茶水章もそれがいい、こんな結婚などただの悪ふざけだ。生きていればいつか栄慶と一緒になれる。と言ってくれるのだった。

月日が流れ5年がたった。
栄慶は言葉通り日本・京都に来ていた。弁髪を切って短髪になってます。このとき栄慶が着ている服がはかまなのか着物なのか、妙に短い。背が高くてちょうどいいのがなかったのか(笑)まあ全体的にぐじゃっときてるんでもう少ししゃきっと着て欲しいんだが、和服ってあの緩み具合が難しいよね。そこへまるで日本人のような長髪で丸い眼鏡をかけた学生服の男がやってきて栄慶にわが同盟軍にはきみのように軍事に詳しい者が必要だ。一緒に戦おうと誘いかける。栄慶は自分は満州族だといいかえす。
男が帰った後、今度は女性が訪れる。和服を着ているが(変な着方ではあるが)なんと少格格ではないか。彼女は栄慶を慕って日本までやってきたのだった。だがもう帰って父のために働く、という。それを聞いて栄慶も一緒に帰る、と言う。小格格は喜んだ。

皇太后はすっかり体が弱りもう長くはない、と感じていた。そして皇帝もひどく身体を弱くしていたのだった。

北京に戻った栄慶は小回回を捕まえ吟児と茶水章の話を聞きだす。小回回は意地悪く暗に含めて話をすると栄慶が全くピンと来ないのであきれて茶水章が誰と結婚したと思うと聞くのだった。

まさか茶水章さんと吟児が結婚するとは。すぐに茶水章さんが自分は変なことはしないといって叔父と姪の関係でいようといってくれたのでほっとしましたが。

そしてまさか栄慶が日本・京都にやって来るとは考えもしませんでした。弁髪もなくなってしまいました。私が無知でこの辺の栄慶と学生のやり取りが説明できなくて申し訳ない。とにかくこの学生さんは清朝と対立する新世代の人間なのですね。
小格格も日本まで追いかけてくるのだから見上げたものです。

出演 スーチン・ガオワー、レネ・リウ、朱旭、ホアン・ハイビン
posted by フェイユイ at 23:53| Comment(2) | TrackBack(0) | 西太后の紫禁城 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
>...この辺の栄慶と学生のやり取りが説明できなくて申し訳ない。
>とにかくこの学生さんは清朝と対立する新世代の人間なのですね。

時代は1907〜8年頃ですね。
孫文が東京で政治結社の中国同盟会を結成したのが1905年ですから その関係の学生さんだと思います。

以下 転載
http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/gendai/15-20china3.html
 孫文らの革命派は、日露戦争における日本の勝利に刺激され、1905年8月(ポーツマス条約調印の半月前)に東京で中国同盟会(中国革命同盟会)を結成した。
 中国同盟会は、孫文の興中会・蔡元培(1868〜1940)らの光復会(1904年に結成)・黄興(1874〜1916)らの華興会(1903年末に結成)などを中心に組織され、孫文が総理に就任した。
 そして孫文の三民主義(民族の独立・民権の伸張・民生の安定)に基づく「駆除韃虜(満州人の王朝である清朝打倒)・恢復中華・創立民国(民主共和国の建設)・平均地権(土地所有権を平均にする)」の四大綱領を基本方針とした。
 中国同盟会は、1907〜08年にかけて各地で武装蜂起したがいずれも失敗に終わった。
Posted by 格瓦拉 at 2006年11月12日 17:03
いつもありがとうございます。
この辺り説明ないままに物事が起きるんで歴史の知識がないと何のことやら、と言う感じです。
まさかこんな風に日本が関係してくるとは思ってもいなかったので驚きました。
と言っても知識があればこういう展開は不思議ではないんですよね。
Posted by フェイユイ at 2006年11月12日 22:54
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