2006年08月14日

「私の小さな楽園」

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これはちょっと見逃せない映画でしたね。
ブラジルの片田舎の風景がだだっ広くて印象的。青い空と強い日差しだけがある。
ヒロインのダルレーニは若いといってもちょっと年がいってて美人の範疇ではないんだろうが、その大きな胸と腰がっしりした体格のせいなのだろうか、子持ちではあったが家持ちの初老の男に結婚を申し込まれる。
が、それは初老の男にとっては体のいい召使を手に入れたことだった。
ダルレーニは朝早くから農場で働き、家事をし家畜の世話夫と子供の世話が待っている。その間夫はハンモックでラジオを聞いているばかりなのだ。
そして実は夫は子供を作れない体質だったのだが、ダルレーニは白人系の夫は似てない皮膚の黒い男の子を産む。ダルレーニ自身は混血(白人とインディオの、と言う事だと思う)なのだ。
勿論夫は疑問を持つが(っていうか)特に問いただす事はなくいつもの生活が繰り返される。次第に疲れていくダルレーニは上の子供を農場に置いて来る(実はこれの意味がわからないのだが、農場にいれば学校にも行けるし将来都会で暮らせるさ、ということらしい。一番辛いシーンだった)
これ以後のダルレーニの生活は少しずつ変わっていく。
夫・オジアスの従兄弟であるセジーニョ(年齢は夫と同じくらい)と関係を持ち今度は青い目の男の子を出産。しかも夫はなぜかセジーニョを同居させる。
セジーニョは心からダルレーニを愛していてその様子はけなげなのである。農場で働くダルレーニをいたわって家事と家畜の世話を受け持ちダルレーニのために毎日お弁当を届けてやる優しい男である。自分の子をダルレーニが産んでからは特に愛情深くなる。
そういう奇妙な関係が続く内、今度は農場で若くてハンサムなシロ(「カランジル」のお医者の先生だ)とダルレーニは関係し同居させてしまうのだ。その上、ダルレーニを手放したくないセジーニョの説得で怠け者の夫・オジアスが懸命にシロの住む部屋を増築するのがおかしい。
若いシロはダルレーニを愛していて子供が生まれたらこの家を出て行こうと言い出す。そしてダルレーニはシロの息子を出産する。

疲れて眠り込むダルレーニとセジーニョ。そしてシロが農場に出ている隙に権力主義の夫オジアスは生まれたばかりのシロの息子と黒人とセジーニョの息子を連れて外へ出たのだった。

やっと子供達がいないことに気づき慌てるダルレーニとセジーニョ。一体夫・アジアスは子供達をどうするのか。
もう嫌な予感でどきどきした。子供の出来ないオジアスは自分の子ではない3人の男の子を自分の息子として登録しに出かけていたのであった。
帰ってきたオジアスと3人の息子を見て真相を知ったダルレーニとセジーニョそしてシロは何も言わず部屋へ入った。

結局男達はダルレーニによって楽園を与えられたのだろう。ダルレーニの惜しみなく愛を与えていく姿が素晴らしい。長男だけは心配なのだが(あの子はどうなるんだろう)3人の男と3人の息子がダルレーニの愛に包まれているのだ。といってもその一人は別の男の息子だし。
美しい風景と音楽もこの物語を形作る大きな要素になっている。

監督:アンドルーシャ・ワディントン 音楽:アルベルト・ジル 出演:ヘジーナ・カセー、リマ・ドゥアルチ、ステーニオ・ガルシア、ルイス・カルロス・ヴァスコンセロス
2000年ブラジル
タグ:ブラジル
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2006年07月30日

「チェ・ゲバラ&カストロ」

カストロ.jpg

正直言って中南米の歴史やゲバラ、カストロについて一握りの知識しか持ち合わせていないのでこの映画を観て感じることがどのくらい正しいのかそうでないのか判らない、ということがある。

もう一つの問題はこの作品が3時間以上のアメリカでのテレビ映画だったものを120分の映像に押し込めてしまっている、ということで作品の主旨がどのくらい変わってしまったのかが判らない、ということ。
この縮められた部分については知りようもないので観る事ができた限りでの感想となる。
またアメリカ資本でアメリカのテレビ放送用に作られた映画だというのも注意すべきことだ。

前置きが長くなったが、それを頭に置いて観たとしてもかなり上手く演出・構成されていたのではないかと思う。
ただこれを見る限りでは「チェ・ゲバラ&カストロ」ではなく「フィデル・カストロそして少しゲバラ」と言う感じである。
私は「モーターサイクル・ダイアリーズ」の映画の魅力とガエル・ガルシア・ベルナルによって中南米映画に入り込んで行った口なのでゲバラはややかじったが、カストロについては殆ど知らなかった。
この映画を観てカストロを演じたビクター・ヒューゴ・マーチン(ビクトル・マルティン?)が素晴らしいせいもあってゲバラの出番が少ないのは不満ではない。
ただ問題はそのゲバラの演出なのだ。カストロとは違って過激なゲリラ男というイメージが強くその活躍も大幅に端折られていたので、これではなぜ彼が出生国でない南米の各地でも英雄として尊敬されているのかが全く理解できないのではないか。最後の戦いの場面でもぶざまにつまずく様が彼を貶めているようでもあり製作者への悪意を感じてしまう。
そのくせより有名なガエルの名前とチェ・ゲバラの名前を先に出す辺りが商魂逞しくはないか?多分可愛いガエル観たさに買った人はがっかりだ。

またそれてしまった。
カストロがアメリカの支配に怒り、クーデターを企てしかもできるだけ敵の命を無駄に失わせる事はなく、ゲバラと出会い意気投合してキューバの独立のために戦うところまでは息を呑む思いだった。
だが独立をして自らが頂点に立った所からカストロに対する評価が厳しくなっていく。特にそれまでの貧しい人の為の革命というだけでなく、共産主義の道を歩みだしてからは独裁者の悲劇という映像になっていく。
ここからが私にはよく判らないのだ(勉強不足、認識不足である)製作者が「アメリカに反抗して戦った姿はかっこいいが、その後の共産主義はこのような悲劇を生み出したね」と言っているとしか思えないからだ。
そしてそれが本当なのかがまだよく判らない。あまりにも悲惨な国のように映し出されるのと音楽や明るい太陽というイメージが結びつかない。

そういうわけで多くの宿題を課せられた状況になってしまったのだが、そういう意味でもとても興味深い映画だった。
カストロを知るための入り口としてはいいのではないのだろうか。ただしこれでチェ・ゲバラを知った場合はさらに他の事で彼を知っていただきたい。偉大な革命家として名高い彼がこれだけの存在と認識されてしまっては困ってしまう。最後の彼の死の場面は「赤いキリスト」と言われた有名なチェ・ゲバラの写真を映像化したものだということを知って欲しい。
(私としては、映画を撮った人達はカストロとゲバラの姿を伝えたかったのだが、製作会社としては共産主義=悲劇という路線を守らねばならなかったんだろうと思っているが)

そしてもう一つ。アメリカテレビ映画らしくキューバ人が皆英語を話すと言う不思議世界になっているが、それが凄いスペイン語風巻き舌発音なのが愉快。英語圏の人になったらどんな感じで聞こえるのか「キューバらしい雰囲気が出てたね」ってことなのかな。

監督:デヴィッド・アットウッド 出演:ガエル・ガルシア・ベルナル、 ビクター・ヒューゴ・マーチン、 パトリシア・ヴェラスケス
2002年アメリカ(中南米のカテゴリにいれてますが)

最後にこの映画でのガエルはファンとしては非常に寂しい。演出がこれなんでガエルとしてもあのいつもの扇情的表情も使いようがないしな。
おまけに小柄な体が悪い方に出ていてかなり体格のよかったチェのように見えない。「モーターサイクルダイアリーズ」の時みたいにごく若くて細い時はぴったりなんだけどね。
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2006年07月18日

「アマロ神父の罪」カルロス・カレラ

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カソリックに対して様々な提議、反論、怒り、笑いを描いた映画を数多く観てきたように思う。
それなのに依然として問題があり解決されつつあるのかないのか、今ひとつ判らない。とは言え長い年月をかけて人々の心に宿っている宗教と言うものを簡単に変えれるものでもないのだろう。

主人公アマロ神父は将来を期待される若者である。人々は皆彼に好意を抱くようである。
信心深い少女・アメリアもまたアマロ神父に心惹かれた一人だった。彼女はそれまで仲のよかったボーイフレンドの態度に失望し、聖職者であるアマロ神父に恋をしてしまうのだ。美しいアメリアの熱心な愛情表現にアマロ神父はついに一線を越えてしまう。

センセーショナルな内容にメキシコ・アメリカでは上映禁止を求める抗議が起きる騒ぎとなりそれ以上に興行記録を作る大ヒットとなったという問題作なのだ。
カソリック教徒でない目から観ればよくある話とも取れるし、聖職者でなくともまだ無知な少女を妊娠させ且つ己の保身のために堕胎をさせようとする男の身勝手も何ともやりきれないものだ。
その少女にしても最初は彼女自身が付きあっているボーイフレンドが世俗的でつまらないと考え、神父の清らかさに恋をしてしまうというのが何とも情けないものなのだ。つまりまだ男と言うものがどういうものなのか判らずにいてどうなるのかも予想していなかったわけで。聖職者である人を普通の人にしてしまったらもう好きではいられない気もするのだが。
ここで彼女は妊娠してしまうのだがこれもカソリックが避妊を認めていないわけなのだろう。そして神父は結婚を認められていない。堕胎も禁じられているためにもぐりの医者にしか頼めない。これでいいのか!という映画なのでありましょう。従って日本に住みカソリックでない者にとっては謎?のような物語、酷い男と馬鹿な女の物語、となってしまう。
とは言え、アマロ神父が破門を言い渡された別の神父のように「神だけを信じているのだ。教会ではない」と言う態度で毅然と彼女と結婚する為に神父の衣を脱ぎ捨てて欲しかった、と思ってしまう。
「今までの勉強がフイになる」と言って彼女をもぐりの医者に渡し、また神の言葉を話す彼の存在とはナンなのか。
ということで頭を悩ましたくもない話なのだ。

そういったカソリックと言うものに対し問題を投げかけた映画なのである。
罪を負ったまま神の言葉を話すアマロ神父に背を向けて去っていくベニト神父の姿が「どうしようもない」というメッセージであるのか。

監督:カルロス・カレラ 出演:ガエル・ガルシア・ベルナル、サンチョ・グラシア、アナ・クラウディア・タランコン
2002年メキシコ

追記:人気の高いガエルはこの嫌な神父役がまたよかった。独特な個性の美貌だが見るほどいい顔に思えてくる。本当に上手いし、笑顔でころりと参ってしまうよな。
質の高い面白い作品が多いのでこれからも見ていこうと思っている。楽しみだ。
アメリア役のアナ・クラウディア・タランコンも清楚なイメージの美少女が似合っていた。
また他の神父たち、アメリアの母親、不気味に信心深いおばさんなどが上手く脇を固めていて見ごたえのあるドラマに仕上がっていた。
他の土地でカソリックでない者が思う以上にこういう映画を作るのは大変な勇気と決断や努力が要るものなのだろう。
カソリックの負に部分を見せ付けられ続けている部外者にとっては「一体何故」というしかないのだが。
新しいローマ法王は一層戒律に厳しい方だそうだが、こういう部分(避妊とか神父の結婚とか堕胎とか)は改善と言う事ではなくむしろ「悪の道」ってことなんだろうか?
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2006年07月08日

「囚われの女たち」続き

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パンタレオン・パントハ大尉は軍にその謹厳実直さを認められアマゾンに駐屯する兵士たちの性的非行防止を目的として売春部隊を組織しみるみるその実績を上げていく。その手腕は売春宿の女将も感心するばかりであった。
だがのめり込む性癖を持つ大尉はここでも売春婦にのめり込んでしまう。素晴らしい肉体を持つコロンビアーナ。その様子をラジオ局にすっぱ抜かれ軍も慌てだす。
その頃、「ビジター部隊・コンボイ」がアマゾンの河川用輸送船の上で荒くれ男どもに襲われてしまう。女達は抵抗したが勇敢に戦ったコロンビアーナが撃たれてしまうのであった。
悲しみに打ちのめされながらコロンビアーナを軍の葬儀として行うパントハ大尉。それを知った軍はパントハ大尉に命じた組織を軍のものではないと否定し、大尉に辞職願を出すよう申請する。
軍人であることが全てある大尉は涙を流してそれを拒絶した。どんな試練も受けるので除隊させないで欲しいと。
かくしてパンタレオン・パントハ大尉は零下の山岳地帯に左遷された。彼はそこで文盲の人達に文字を教えるのだ。実直な大尉はここでもその任務を忠実に行った。
貞淑な妻は夫に付き添った。
が、今までタバコを吸うことのなかった大尉がタバコをいつも吸うようになった。
彼はライターで火をつける時、コロンビアーナを思い出すのだ。

生真面目な大尉がおかしくて悲しい。軍に忠実で禁欲主義であった彼がこともあろうに売春組織の経営を任命され勤勉なあまり大成功してしまう。そしてその成功のために今まで順調に出世していた彼が極寒の地に左遷されてしまう。滑稽と言って笑うのか。かわいそうと言って泣くのか。何ともやりきれない人生の苦味である。

色々な販売会社のDVDの説明がわざとなのか、勘違いしてんのか判んないけど全然違っていておかしかったのだが、ここでのビジターさんたちは別に「連日20人以上も相手をさせられ、性の奴隷のように扱われた。しかも、レイプ同然のセックスを強いられ…」とか「軍部に性の奴隷として囚われた女の恐怖と過酷な任務を描いた官能サスペンスである。駐屯地という社会から隔絶された密室で、若い兵士に次々と押し倒されて犯される女たちの絶叫が響く中、女たちの密かな反撃が試みられるエロス作品である」なんていう場面はないんですがねー。
凄くあっけらかんとしててまるでサッカーの試合にでも出るかのように掛け声を上げ兵士たちの元へ乗り込んで行くんである。一方兵士のほうはもう長い間ご無沙汰だったんで一応20分の制限時間が定められているのだが5分で終わったりして絶叫なんか響いてないのだよ。
物凄い状況を期待して鑑賞したらばがっくりくるかもだが、大体「囚われの女たち」ってタイトルがもうアレだから。女たちは囚われてないしな。原作は「パンタレオン大尉と女たち」になっている。スペイン語は判んないけど「パンタレオン イ ラ ヴィジタドラス」というのであろうか。
原作の方が大尉の溺れっぷりが凄いみたいですけど(笑)映画の方はかなり格調高く最後もセンチメンタルな恋心が描かれているようだ。

ともかく辛辣な批判と笑いと悲哀が混じりあった傑作でありました。女でも見惚れるほどのセクシーボディは出てきますがこういう意味でのポルノ映画ではないのだよ。官能的であることは確かであるが。
検索しても感想など書かれていないようだ。
この映画を勘違いして観ないままにしてしまうのは惜しい!!この面白さ、確認して欲しいものです。


監督:フランシスコ・J・ロンバルディ 出演:サルバドール・デル・ソラール 、 アンジー・セベダ 、 モニカ・サンチェス
1999年ペルー/スペイン

原作「パンタレオン大尉と女たち」
タグ:軍隊
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2006年07月07日

「囚われの女たち」フランシスコ・J・ロンバルディ

囚われの女たち.jpg

この映画は儲けもの、というか面白かったなあ。なにしろ「エロティック」というカテゴリに入れられてるしパッケージもご覧のようにかなり挑発的ボディでございます。私自身この見事なヒップを映像でも観たくて借りたりして。確かに売春婦達のお尻がずらりと並ぶシーンはありましたけどね。
などと言うとまた余計にそそらせてしまうのか。あるDVDの説明なんて「横行する若い兵士達によるレイプ事件の抑制に、性欲処理をするためだけに集められた女たちの恐怖と過酷な任務を描いた官能サスペンス」って。「毎日兵士たちに押し倒されるだけが彼女達の仕事だった」なんてのもあったけど、そう書いたほうがそそられるわけなのだろうがそれが目的で鑑賞したらちょっとあれれかも。実は普通に映画好きの方にもっと観てもらいたい内容なのだ。原作はマリオ・バルガス=リョサであるし。

筋書きは嘘ではない。ペルー・アマゾンの密林地帯に駐屯する兵士たちのレイプ衝動を抑えるために軍隊が売春組織を出動させ兵士たちの奉仕活動(性欲処理)をさせるのである。その「ビジター組織」の最高責任者を任ぜられたのが前途有望の若き大尉パンタレオン・パントハ。男らしい二枚目で文武両道に優れ、酒タバコ女遊びはしない。美しく貞淑な女性と結婚したばかりの極めて真面目な軍人なのだ。しかも与えられた任務は(例え売春婦達の指導者と言う仕事でも)徹底的に尽くす。何しろ食事係のときは太ってしまい、制服係のときは服のデザインまでしてホモだと言われるほどなのだ。
大尉は兵士たちの性欲を満たすにはどのくらいの娼婦と回数が必要かを割り出す。その膨大な数には驚く。
女性を必要としている兵士の数は8700名余り。
希望回数は1ヶ月に12回、つまり供与(売春行為をこういうらしい)の需要回数は1ヶ月に10万4700回余りと言うのだ。1人のビジター(娼婦)が1日20回できるとして(そうなのか)2271人のビジター(娼婦)が必要である、という。(あれ、計算あってんのかな)
という事になるのだが、とりあえず最初は5人の娼婦をつれて(おいおい)パンタレオン大尉はジャングルへと赴くのであった!

二枚目の大尉が大真面目にジャングルで働いている姿はおかしくもあり感心もする。
とにかくこのとんでもないおかしさと切なさを持った物語なのである。

そして真面目な大尉はここでエロティックな肢体を持つコロンビアーナという娼婦に恋をしてしまうのだ。
服を着ているときはほっそりしているのに脱ぐと悩殺ボディなコロンビアーナは兵士の間でも一番人気。大尉はとうとう自制できず美しいコロンビアーナと肉体関係を持ってしまうのであった。

果たして我らがパンタレオンの運命は?続く

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2006年06月29日

「カランジル」バベンコ監督のコメンタリーを観て

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ヘクトール・バベンコと言えば「蜘蛛女のキス」を思い出す。1986年の作品でどういう形で観たかも覚えていない。ウィリアム・ハート演じる女装ゲイのモリーナと反体制運動家の男との刑務所内での恋物語であった。
さすがに遠い昔に観たきりなので断片的にしか思い出せないのが残念だが、この「カランジル」同様、叙情的な雰囲気の漂うものであった。

「カランジル」はドキュメンタリーに仕上げようとしていた、というだけあって囚人たちの話を積み上げていく形式になっているが、膨大と言っていい人数を映し、多くの囚人達の個々の物語をまとめ上げていく力量に驚く。
一人の医師が見て聞いていくという手法がそれを可能にしている。

ヴァレラ医師は非常に寡黙で公平な印象を持つところが観客に信用を持たせる。
囚人達は多種多様。身体を異様なほど鍛え上げている男もいれば、麻薬に溺れているもの。囚人達のまとめ役もいれば、妹のセックスをだしに麻薬を手に入れようとする情けない奴もいる。敬虔なキリスト教の信者達の集まりもある。映画の中で最も凶暴な男が改心して宗教を求める挿話がある。
物語で最も悲しいのは義兄弟のジーコとデウスデッチの話だろうか。彼らは幼い頃からデウスデッチの実姉とともに義兄弟として親しんだ仲であり弟デウスデッチは命の恩人でもあるジーコを頼りにしてきた。だが麻薬に溺れるジーコが可愛がってきた弟にしでかした過ちは取り返しがつかないものであった。
監督は是非未公開シーンの彼らを見て欲しいという。
動かなくなった彼らの抱擁は物悲しいものだ。
彼らはまたその後、登場する。デウスデッチは泣き続けている。
これらは麻薬に対する監督の嫌悪である、と捉えるのは道徳的すぎるだろうか。

医師が気球を飛ばす主人シコに尋ねる「なぜここへ?」シコが答える「私の嘘も聞きますか。ここには罪人などいないのです」また彼はいう「刑務所というのはいつか出られるからいいのですよ」

刑務所内でのサッカーシーンと言うのはサッカーが盛んな国ではお決まりのものだ。ましてやブラジルにおいてや。
ここで聞きなれた(特に今)ブラジルの国家が流れる。囚人達の心が一つになっているのがわかるようだ。このような統一感というのはもしかしたら日本ではなかなか観られないものだと思う。またそれを嫌う。

レディとセン・シャンシの結婚式が微笑ましく見えるのは監督自身が酷く気に入って撮ったからだろう。作り手が好きでなければこのように美しい場面が出来る事はない。
まるで童話のように愛らしい一場面である。

映画の最終章は残酷なものだ。長い時間その生活を見てすっかり顔なじみになった彼らが突然起きた些細な揉め事から暴動になりそれが軍警を動かす。
軍警が行った虐殺行為は全く非人道的なものだが全て誇張なしの事実なのだと言う。ここでもバベンコ監督の撮影は過剰に憤ったものではなく出来うる限り客観的に事実を再現しているように思える。
そして生き残った囚人達は丸裸にされ中庭に頭を下げて整列し座らされる。人間性を剥ぎ取った怖ろしい光景だ。
殺戮の幕引きとしてまた非常に幻想的な効果が用いられている。また非常に宗教的な雰囲気がある。
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2006年06月28日

「カランジル」ヘクトール・バベンコ

カランジル.jpg

2004年10月に観た「カランジル」を再度鑑賞した。以前観た時も凄く感じることのあった映画なのだが、その時はまだそれを文章にすることが出来ずにいた。再び挑戦してみることにしよう。

1992年、ブラジル・サンパウロの「カランジル」刑務所は4000人という収容能力の中に7500人という密集状態であった。
些細なきっかけで起こった暴動の為、機動隊がが突入して武力により鎮圧。囚人達の死者の数は111人に上った。

物語はエイズ防止の為に派遣された医師ドラウツィオ・ヴァレラによって語られる。
この犯罪者を詰め込んだ巨大なカランジルという建造物はまるで迷路のようだ。理知的な印象のあるヴァレラ医師はそこでの囚人達の生活を温厚な眼差しで観ているようだ。
だが、最初に彼らと話し合ったヴァレラは彼らが自ら起こした犯罪について全く罪の意識を持たないことに苛立ちを覚えてもいる。そして彼らのそういった性癖については関わらないと決めてヴァレラ医師は次第に彼らの生活に入り込んでいく。
彼らの生活は不思議なほど自由にも見える。塀の中だけとはいえ、自由に歩き遊び楽しんでいるかのようだ。麻薬が売買され、男だけの世界であっても女装した男達がそういった性の不満を解消してくれるのが当たり前になっている。従ってエイズの蔓延が酷く(コンドーム推奨の為のコンサートが行われる。女性歌手がやって来て丁寧にコンドームの使い方を教えてくれるのだ)ヴァレラ医師の仕事の一つはエイズ診断である。
刑務所内には信心深いものも多い。夜の闇の中、所内でマリア像に灯をともしているのが美しい。ヴァレラ医師が夜の各房のざわめきを覗き込むと一部屋にたくさんのテレビを置き各自で楽しんでいる者たち。部屋で煮炊きしている者、など様々に暮らしているのだ。
生活がマンネリであり出世などを望まなければここで暮らしていくのも可能ではないかと錯覚してしまう。だが、彼らの本質はやはり犯罪者である、ということなのだ。ここには彼らなりの秩序があるがそれを乱すものは力によって封じ込められてしまう。
これは未公開場面の中にあったものだが、ここでは「強姦野郎」というのは最も忌むべき存在であるらしい。これはちょっと驚きだった。女性に対して暴力を振るうことはリンチに価するらしい。(日本で強姦野郎だからと言ってリンチを受けるだろうか?ブラジル男というのはそういうものなんだろうか?)少女を強姦した犯人は同じ房の男達によって身体に電気を流された上「少女の苦しみを受けろ」と言われ強姦(勿論カマを掘られたわけね)された。ラストの惨殺シーンでも女装の男が「女には暴力を振るえなかったから助かったのよ」というセリフがある。もしそういうものならブラジルの男は本当に男らしいんではないか?(信じすぎ?)

そして映画中で微笑ましいのがその女装男(わお!!あの美青年・ロドリゴ・サントロではないか。「ビハインド・ザ・サン」の後に続けて観てしまうとまるであの後この刑務所に入ってこういう状況になってしまったかのように思えるではないか、涙)レディとセン・シャンシの恋物語、そして結婚式だ。
エイズの危機も警官達の突入の時も彼らは互いを信じあって手を取り合っている。出獄しても結婚生活を続けるのだという。幸多かれと祈る。
ロドリゴ・サントロが目的で観てしまう人もいるだろう。女装をしていると背が高く逞しいのが強調されるものだ。しかし尚且つ綺麗な人である。おんなっぷりも申し分ない。

お定まりのフットボールの試合があり、家族や友人、恋人が集まってゆっくり会談(あるいはセックスも)するのを許される日も用意されている。
しかし刑務所での平和を満喫できるのも約束されたことではないのだろうか。
下着一つの些細な揉め事から囚人達の喧嘩が始まり、暴動となる。こうなったら、悪党達は収まらないのだ、と言う。戦争が始まった、と手作りのナイフを持ち暴れだす。警察が動き、刑務所所長の説得も空しく所内に警察が突入し丸腰の囚人達を次々と銃殺していくのだ。殺戮、と言っていい。
囚人達の弁とはいえ、警察の中には冗談のように殺して行く者もいたらしい。だがそれは神のみぞ知る、だ。

騒ぎが収まり後には血の海とそこに横たわる囚人達の死体。生き残ったものは全裸になって庭に整列させられた。これが上の写真になる。裸の中に残されたサッカーのゴールポストが何かを象徴しているのだろうか。

監督ヘクトール・バベンコは憎むべき犯罪者たちが群れる刑務所の生活とは言え、非常に愛情を持ってある意味では理想郷と錯覚してしまいそうな、少なくとも一種の集団生活者達のような目線で彼らの生活を描いているように思えてしまう。
だがやはりそれは幻でしかないのだろう。
様々な理由で犯した事とはいえそれは犯罪であり、彼らが暮らしているのは危うい均衡の上に置かれた仮の住まいでしかない。

囚人の一人が熱気球を飛ばす事を趣味にしている。狭い刑務所の中庭から飛び上がろうとする紙製の美しい熱気球。
だが上空に上がる前にそれは燃え尽き落ちてしまう。彼らの運命を思わせる儚い夢のようである。

監督・製作・脚本:ヘクトール・バベンコ 出演:ルイス・カルロス・ヴァスコンセロス/ミウトン・ゴンサウヴェス/アイルトン・グラーサ/ロドリゴ・サントロ 2003年ブラジル
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2006年06月21日

「アモーレス・ペロス」アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ 

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3つのオムニバス形式だがそれぞれが車の事故という出来事によって繋がっている。
タイトルの「アモーレス・ペロス」は「犬のような愛」ということらしい。3つの物語の主人公とも犬と共に生活している存在なのである。

第1話。ガエル・ガルシア・ベルナルが己の欲望のままに兄の妻に言い寄り間違った方向へ走ってしまうという話。

映画は二人の若者の車での暴走から始まる。心臓が破けそうな恐怖に満ちたこの暴走が彼らのしでかした罪を物語る。

相棒と共に闘犬をして金を稼ぎ、兄嫁と逃亡しようと計画を立てる若者を演じたガエルが何ともいえない甘い魅力を爆発させている。その美貌は彼が坊主頭になったときに一層強く感じたのだが、本当に美しくて魅力ある役者だと思う。彼自身がとても動物的なセクシュアリティを持っているではないか。
兄嫁とセックスをする時に鏡を見ている彼の一見優しく思える行動は結局自己の欲望を満たすために過ぎない。

第2話。美しい肢体を持つモデルの女性、その彼女と不倫関係にある男の話。
1話目の事故に巻き込まれた彼女はその美しい足に絶望的な傷を負ってしまう。
優しげに彼女を看病する男だが、その心には自分の欲望を満たす為の苛立ちがある。
彼女と住むマンションに床に開いた穴に彼女の愛犬が飛び込み出てこない。助けようとしてくれない男に彼女は怒りをぶつける。
男は行き場を失い、本妻に電話をかける。

本音を言うとこの話は私は物凄く疑問があるのだ。本筋とは脱線するのでどうでもいいといえばそれまでだが気になる。
まず男が彼女との愛の巣として用意したマンションの床があっさり割れてしまうのだ。まあ、解釈的には不倫なんぞしている関係は足元が危ないぞと言うのを映像的に見せてるんだろうというのは判るとして、やはり購入(かなんかは知らんが)したばかりの家の床が細いモデルが踏んだくらいで割れたりするならまず施工した業者にクレームをつけるべきだろう(か、購入した代理店に)「修理代がないんだ」ってのはおかしい。文句をつけて修理させるのが当たり前だ。いや、メキシコでは修理はしてもらえないんだっていうのならさー床に穴開いてんだからベニヤ板でも買ってきてクギで打ち付けてくれよ。なんならやってやろうか?床に穴開いてるだけで気になって観てられないよ。彼女が落っこちたらどうするよ、足、ケガしてんのに。(彼女が穴に落っこちてっていう話かとはらはら)不器用で出来ないなら上に何か置いてくれ。

案の定、犬が落っこちた。彼女が助けてって言ってもなかなか助けない男。またいらいら。床下で犬が死んだら匂いもするし、気持ち悪くて住めないだろ。早く助けろよ。
案の定、どうしようもなくなってから床にぼこぼこ穴あけて救出。馬鹿だ。

さらにぼろぼろになった床が彼女との愛情を物語っているじゃないか。馬鹿な男と不倫すると痛い目にあう、という寓話でした(違うか)

第3話。1・2話でも登場した犬をいつも引き連れた謎の老人。彼は実は愛する家族を捨ててテロリストになり捕まって投獄されたという過去を持つのだ。
例の事故で車の中にいた傷ついた犬を助ける。その結果、その犬は(かつて闘犬をしていたので)老人の可愛がってる犬達を噛み殺してしまったのだ。
怒りでその犬を殺そうとする老人。だが殺せない。彼自身、昔テロリストとして人殺しをした身ではないか。
老人のたった一つの願いはまだ2歳の時に別れた娘と再会すること。実際は彼女の姿を追っていたのだが、どうしても名乗りを上げることができないのだった。娘を思いながらも言い出せずいつか会う勇気が出たならとその犬を連れて旅立つ老人(髭を剃ってスーツに着替えたらそんな年寄りではなかった。突然ビジネスマンのようになった。驚き)の姿が哀しい。

3つの物語によって示される愛のなんと熱くそして哀しいことか。「犬のような愛」とはそのまま動物的本能による愛のことだろうか。
巧妙に筋を組み立てながらも荒々しい剥き出しの人間の姿を見せつけられる。


監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
出演:エミリオ・エチェバリア、ガエル・ガルシア・ベルナル、ゴヤ・トレド、アルバロ・ゲレロ、バネッサ・バウチェ、ホルヘ・サリナス
1999年メキシコ
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2006年06月20日

「ビハインド・ザ・サン」の幻想風景

サン.jpg

ウォルター・サレス監督の「ビハインド・ザ・サン」を何度となく思い返す。
物語に衝撃を覚えると共に幻想的な映像が忘れられない。

映画の中でサーカス・大道芸と言うのは特に不思議な記憶を残すものだ。多くの作家が題材に使っているにも関わらずそれでもなお一種の驚き、憧れを抱くものである。

青空の中を舞う少女というイメージのなんと美しい事だろう。土地と家の掟に束縛された青年は少女の身体を回しながら夢を見たに違いない。
身を焦がす火を自由に操る少女に勇気を与えられながらも恋をしたことだろう。

サーカス、という甘美な響き。秘密めいた非日常の世界である。例えば、フェリーニの、レイ・ブラッドベリの世界に惹かれたことがあるだろう。「ロザリンとライオン」の少女にも。

二つに分かれた道がある。いつも左に行くのを青年は最後に右側の道を進んでいった。
たどり着いたのは海。波が高い荒涼とした海の風景だ。それはこれから青年が進まねばならない未来の光景なのだろうが、青年に後悔はないはずだ。
青年が恋をしたサーカスの少女は空を舞いながら人魚というイメージで語られる。川魚パクーという名をつけられた弟の導きによって海にたどり着き人魚の少女とやがて出会うのであろう。美しい予感だ。

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2006年06月17日

「ビハインド・ザ・サン」ウォルター・サレス

ザ・サン.gif

映画を観終わって安堵を覚えた。泣きたくなるような素晴らしい結末だった。希望を感じさせてくれた。

1910年のブラジル。荒涼とした土地を争うブレヴィス家とフェレイラ家は代々に渡って互いの血を奪い合う事を繰り返してきた。終わりのない怒りと哀しみ。
そしてまたブレヴィス家の長男を殺した復讐を果たす時がきたのだ。

青空に翻る血のついたシャツ。その場面が印象に残る。その血が黄色く変化した時、復讐を果たさねばならないと、父親は次男であるトーニョに「義務」を果たせと銃を渡す。ブレヴィス家の生活は苦しい。父母とトーニョ、弟の4人で収穫したサトウキビを砂糖にして僅かな金を得るのだ。父親は厳格で受け継いだ少ない土地と名誉に固執している。母親はそれに従うのみ。20歳のトーニョも父親の命令で従順に行動するだけだ。

だが幼い弟はそんな家族に疑問を持つ。弟には何故か名前がない。「坊や」と呼ばれるだけなのだ。
田舎道を通りかかった旅する大道芸の男女が坊やに本を渡す。坊やは字が読めないがそこに描かれた絵を見ながら物語を作り上げる。

神話のようでもあり、子供の作った童話のようにも思える物語なのだ。
それは「坊や」とだけ呼ばれる少年の語りから始まる為だろうか。なぜ「坊や」には名前がないのか。だが坊やは大道芸(サーカスと言われているが)の男から名前をつけてもらう。それはパクー。川魚の名前だと言う。
少年と家族が住む場所の名前は「魂の川」というのだ。だが干上がって今は水も流れていない。川魚のパクーはどこにも行けはしないのだ。そして彼らの魂はすでに干からびてしまっている。

父親に従うだけの兄トーニョに弟は言う「僕達はぐるぐる回る牛と同じだ。どこへも行けない」
さらに息子達には家の掟がある。いつまでも終わらない仇討ちの繰り返しだ。弟はトーニョに仇討ちに行かないで、と言う。彼だけが無意味さを言葉にしているのだ。だが家を受け継いできた父親にはそれは名誉を汚すことでしかない。

遠い昔の遠い世界の話と言うわけではない。何かしら自分にもこういう状況であることが思いあたらないだろうか。それは世界的な状況でもあるし、自分自身のことでもある。(私なんざ自分そのものと思っちまったよ。いや復讐劇のほうじゃないが。どこにも行けず仕事ぐるぐるの方)

厳格な家の掟から兄を救おうとした弟の決意は哀しい。だがトーニョはそれをはっきりと自覚したのだ。
復讐だと叫ぶ父親の声に振り返ることもなくトーニョは歩き出した。そして人魚に出会う為に海にたどりつくのだ。

旅人によって川魚パクーと名づけられた弟は兄を自由な海へと導く。そこに待つのは(姿は見えないが)恋をした人魚なのだ。

怖ろしい血の報復は終わったのだ。「終わったのよ、何もかも」と母親は叫び父親は動かなかった。トーニョは歩き出したのだ。

サーカスの少女クララが綱を登り空中を舞う場面がなんという美しさだろう。夢をみているようだった。
(あまりにも動きが綺麗なので驚いたがクララ役の女性フラヴィア=マルコ・アントニオは実際にサーカス団員なのだった)
また弟とトーニョがブランコで遊ぶシーンもある。同じように青空に舞うトーニョ。だけどブランコはその場所から動くわけではない。途中でブランコの綱が切れてしまう。弟が言う「トーニョは上手く飛べないんだから」

幼い少年が兄のために自らの命を犠牲にするのを観て「ほっと安心する」のは変だろうか。
だがここで一番覚醒していたのは弟だけだった。彼こそがこの物語を作り上げたのだ。
ここで兄が死ねばいつかまた自分も人を殺し殺される。弟が取った道は哀しい選択だったが間違ってはいなかった。兄もまた弟の思いを受け取った事がうれしく思える。

ウォルター・サレス監督は「モーターサイクルダイアリーズ」を撮った人だが、その主人公であるチェ・ゲバラもまたそのような人であったと思う。
(「シティ・オブ・ゴッド」の製作もやってるが)

また何と言ってもトーニョ役のロドリゴ・サントロの美貌に注目がいくと思うがまさに!
確かに苦しい題材なのであるが美貌ほどカンフル剤になるものはないのだね。まったく見惚れるばかりでありましたよ。

監督:ウォルター・サレス 出演:ロドリゴ・サントロ、ラヴィ=ラモス・ラセルダ、ホセ・デュモント、リタ・アッセマニー、ルイス=カルロス・ヴァスコンセロス、フラヴィア=マルコ・アントニオ
2001年、ブラジル
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2006年06月14日

「天国の口、終わりの楽園」アルフォンソ・キュアロン

天国の口.jpg天国の口a.jpg

映画の中で二人の少年が水中を泳ぐシーンが何度となくでてくる。二人は水中をどのくらい進めるのかをいつも競争しているのだ。

進路をどうするのか迷いながらもひと夏を退屈に過ごす17歳の少年ふたりと今までの人生を変えようとする一人の人妻。
メキシコ・シティーからオアハカの海岸「楽園の口」を探して3人が車を走らせる。

二人の少年が代わるがわる運転する車の窓から見えるのどかな風景。が何度となく銃を持った男達(兵士?警官?)の姿が見える。

少年達が話すのはセックスの事、薬、チゃロラストラという自分たちの作ったふざけた組織の事。
「天国の口」とでまかせに言った海岸を探しながら少年たちは子供の時代の終わりを感じている。
そして人妻でありながら、夫の浮気を機に最後の旅に出た女性ルイサもまた楽園の終わりを迎えようとしているのだ。

少年達がでまかせに言った「天国の口」という名前の海岸が存在するという不思議。人生にもまたこのような不思議が存在するのかもしれない。
その海はなぜだかあまり光がなくて曇ったような空だ。そのぼんやりした空の向こうに小さく日の光が浮いている。
不思議な感覚をおこす風景だ。
彼らは言い争ったりしながら旅をしてきた。最後の晩、浜辺の灯りが美しい。ルイサに愛撫を受けながら少年達は唇を合わせるのだった。

大学への進路を考える年齢。苦い大人への成長とまだ甘い少年時代の残った時間。
憧れの年上の女性との旅。しかも彼女からセックスの手ほどきを受けるという男の子なら夢のようなお話(ん、年上の女からしてもこんな可愛い男の子二人とつきあえるなんて夢のような話か)
一見馬鹿話につきるような展開なのだが、その馬鹿話こそが僅かな少年時代の証なわけで。
自分のことでは涙にくれているけど少年達にはびしっと厳しい、それでいてセックスを求めてくるルイサという女性のおかげでからりとした青春映画になっている。
少年時代の終わり、という時期。やがて分かれていく友達。愛した女性の死、そのものが少年たちの楽園の終わりを意味しているようだ。

だがここで私が感じたことがある。
自由を求めて旅立つ女性、というモチーフが扱われているように思えるが結局この女性の存在は二人の少年の思い出の為の偶像のようだということ。凄く感じよく仕上がっているところがうまいのか。

そして思うに、この映画はやはり少年達の美しさを写し撮るためのものなんだろうな。
少年の相手の女性の裸、というよりも少年たちの裸体が何度も出てくる。それもかなりきわどい雰囲気のあるものだ。確実に少年達の裸体を見つめている視線を感じてしまうのだが。
かれら二人が最後にキスしあうからというわけではないが、この映画は随分同性愛的な雰囲気が強いのではないか。
私はこの監督の事を全く知らないがかなり少年愛嗜好の強い方ではないのだろうか。
後に同監督は「ハリー・ポッター」第3作目を撮ったということでも頷ける。

また私の勝手な思い込みに過ぎない。だが、酷く魅惑的な映画であることは確かである。少年達を演じたガエル・ガルシア・ベルナルとディエゴ・ルナの若い魅力もまた。

それにしても特典映像で、来日の際の会見で、監督の「ガエルに誰と一番キスしたいのか、と聞いたら「ディエゴだ」というので友達役を決めた」という出まかせに(また出まかせか)「違うよ!」と言ってうつむくガエルの可愛いことといったら!監督はサディストでもあるね。ずっとガエルをいじめては喜んでいた。
でもってガエルのこの笑顔に皆参ってしまうのも当たり前ですね。


監督:アルフォンソ・キュアロン 出演:ガエル・ガルシア・ベルナル、マリベル・ベルドゥーディエゴ・ルナ
2001年、メキシコ
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2006年06月12日

「ブエノスアイレスの夜」いくつかの謎

「ブエノスアイレスの夜」をもう少し。書き忘れたことがある。

この映画は謎解きの要素がまた不思議な雰囲気を出していて面白いのだ。まず、冒頭。カルメンの妹アナが帰ってきたカルメンを見て眩暈を起こす。これは彼女が妊娠していたせいもあるのだが、これから起こる怖ろしい出来事を予感していると思わせる。
アナが妊娠している、という設定も何か表しているのだろうか。

他にも判らないことがいくつかある。アレハンドロはアナがいけた花をみて「派手すぎる」と言い、実際カルメンはいけられた花を掴みあげる(その後のシーンはカットされているが)これは何故?そんなに派手には思わなかったんだけど。
カルメンと父親の関係もほんの少しの会話から推察するしかない。「私がお前を助けた」と父親は言うが、酷く傷ついているカルメンを見てるとそう思えないし、カルメンの父親への態度もかなり冷たいものだ。母親に対してとは随分違う。何故なのだろう。

一番の謎と言うのはカルメンが何故突然自殺しようとしたのか、ということだろう。愛したグスタボとやっと初めて(グスタボがアナに「寝たよ」といったのは嘘だろうから)結ばれたのにすぐに自殺を図ってしまう。
多分、カルメンはこの時すでにグスタボが子供だと知っていたのではないだろうか。もしかしたらもっと前から子供かもしれないという思いを少しずつ強めていたのかもしれない。

カルメンはアレハンドロが(多分)軍に命じられて子供を殺してしまったんじゃないかと疑っていたのかもしれない。だから彼をあんなに憎むような言い方をしていたのじゃないだろうか。仕方ないとはいえ。
そのアレハンドロが今度は自分の命を救ってくれた。生き返ってカルメンはやっと落ち着いて考えたのかな。「これでよかったんだ」って。

それにしてもアレハンドロはずっとカルメンの事を想っているのに恨まれるばかりで辛い男です。

グスタボの世話をしていたカルメンの友人ロクサーナ女史の顔が好き。

南米って言うと、一時期南米文学の全集みたいなのが出て、ガルシア・マルケスだのバルガス=リョサだの読んで衝撃を覚えた。
それまでヨーロッパの統制の取れた知的な文学に慣れていた頭には南米文学と言うのは理解しがたいものがあった。
勿論、日本なんかとは全く違う世界なのだ。
映画で見る以上に文学の南米は不思議な世界であった。無秩序な性と暴力の描写が物凄い力でせまってくるようで怖ろしかった。
今、映画で観ていても南米のものはそういう理解しがたい恐怖を感じさせられる。
このブログではまだ取り上げてないのだけど「シティ・オブ・ゴッド」のような感じ。

この映画から離れてしまったけどそういう恐怖、というものがこの映画の底にも流れているのが感じられるのだ。

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2006年06月07日

「ブエノスアイレスの夜」でのガエル・ガルシア・ベルナル

ガエルa.jpgグスタボc.jpg

映画自体が凄く好みであったために出演者について全く触れなかったので少し。

カルメン役のセシリア・ロス。「オール・アバウト・マイ・マザー」に出演しているそうですがまだ未見。是非観ようと思う。
42歳の仕事に生きる女性カルメンが硬く冷たいのは20年前にクーデターで拷問を受け、夫も失ったからだが、同じように働く女性にとっては自己投影しやすいキャラクターではないかなーと思いつつ観る。
しかも恋する相手が可愛いガエルである。同じ年代の女性なら(私もそう)ちょっと羨ましい役である。
大体この設定って男女が逆なら(年配の男とうら若い少女というのなら)結構あるんじゃないか。
40の女と20の青年(てか少年に見えるが)にしたところがまた特別かな。
カルメンの頑なな部分も恋をして可愛くなる部分も非常に赤裸々なのである。あまりにも赤裸々過ぎてちょっと恥ずかしいような気もするのだ。勿論、若い男女を雇って性の欲求を満たす部分も。そんなカルメンを演じきったセシリア・ロス。素晴らしい。

グスタボ役のガエル・ガルシア・ベルナル。ホントに美青年なのか、よく判らない。小さな獣のようにも見えるし。でも笑うと途端にぱっと可愛らしい顔になってみんな彼のことを好きになってしまうに違いないって気になる。
やはりラテン独特の濃厚な魅力を持っていると感じる。一度好きになってしまったら他の男では満足できないようなそんな感じ。てんで小さな男の子みたいな役だけどね。小悪魔的な少女がいるけどその男版。「モーターサイクルダイアリーズ」爽やかな印象だけだったけど。「バッド・エデュケーション」の時とも違うしね。

映画中に出てくる彼のポスター、欲しいよね。
posted by フェイユイ at 17:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 中南米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「ブエノスアイレスの夜」結末の行方

カルメン.jpgグスタボ.jpg

この映画では、過去に起きたことは会話によって説明されるだけで映像による表現がない。その為、観る者は注意深く会話を聴いて(読んで)いないとカルメンが何故こんなに固く心を閉ざしているのか、苦しみを背負っているのか解らないだろう。
1970年代に起きたアルゼンチン軍事クーデターというものも映像での説明がない。それはそれを知らずにこの映画を観た者への課せられた宿題となる。「どうぞアルゼンチンの歴史を調べてみてください」と。

ただここでは軍に捕らえられたカルメンがどんなに惨い拷問にあったのか、想像してみよう。その為、彼女は男性との肉体交渉をもてなくなってしまったのだ。
カルメンは肉体の接触を断っているためか聴覚が人より過敏になっている。時折、現実にない音が聞こえる。音が彼女の心を表している。
若いグスタボに惹かれたのも電話で彼の声を聞いた最初の瞬間からだった。
これも説明がないから解らないが、長い間、閉ざされた牢獄の独房で(恐ろしい軍の人間以外は)誰とも会わず、何も見ることのなかった彼女には聞こえてくる音が唯一の感触だったからかもしれない。

壁を隔てて背中合わせにグスタボの声だけを聞いているカルメンのシルエットが映る。その構図は悲しいが少しずつ彼女が彼のそばに近づいたのがわかる美しい場面だ。
やがて自ら扉を開けたカルメン。彼の電話で雨も気にせず駆け寄り彼女はとうとう愛し合う相手を見つけたのだ。
が、物語は残酷な方向へと走り出す。カルメンの心を開き愛し合ったグスタボは彼女の息子だったのだ。
20年前投獄された牢の中で産み落としすぐに連れ去られたためにカルメンは赤ん坊は死んでしまった、と思い込んでいた。
そして憎むべき一人の軍人の手で拾われ育てられたのだった。

愛する人が自分の母親だったと知ったグスタボは混乱したまま育ての親である軍人だった父親の家へ帰る。
父親はグスタボを愛しており財産も彼に譲ると言う。が、グスタボは実の父を殺し、母を苦しめた軍人である義父を撃ち殺す。

この話でギリシャ神話の「オイディプス」を思い出す人もいるだろう。あの物語は父親が視点であったが、ここでは母になっている。
また、この話はもしかしたら実の父と娘が知らずに愛し合う、と言うものならばこれまでも映画として作られていたと思う。
母と息子になっていることはこれまでにはあまりないかもしれない。

カルメンは刑務所に入れられた息子グスタボに会いに行く。まだ二人は互いに克服してはいない。
人の目を気にしながらも抱き合い、キスしあう、親子だと言い聞かせながら。
泣くグスタボにカルメンは言う「そんなに悪い結末ではないわ」と。カルメンが言ったこの言葉の真意は?
カルメンにとってグスタボは牢獄ですでに死んでしまっていたと思っていた愛する子供だったのだ。彼女の心に最も深い傷を残したのは子供の死だったはずだ。
でも子供は生きていた。また、もう会うこともなかったかもしれない。でも運命は二人を引き合わせた。
もしかしたら心が通じ合うこともなかったかもしれない。だが、互いに惹かれ愛し合ったのだ。
残酷な過去を持つカルメンにとって最愛の息子が生きていた。そして自分を愛してくれた。自ら死を望んでも免れることになった。
「そう悪い結末ではない」のだ。
それがたとえ最も恐ろしく重い禁忌=近親相姦が代償だったとしても。

人によって思いは違う。

母親である私にはこのラストはうれしく思えるものだ。確かに息子は生きており、自分を愛してくれた。
他に何が必要だろうか?

監督:フィト・パエス 出演:ガエル・ガルシア・ベルナル/セシリア・ロス
ドロレス・フォンシ  製作年:2001年/製作国:アルゼンチン・スペイン
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2006年06月06日

「ブエノスアイレスの夜」

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財産分与の為、スペインから故郷のブエノスアイレスに帰ってくる姉・カルメンと彼女を迎える妹とその家族。
家族の会話から次第に物語が浮かび上がってくる。

カルメンは非常に冷たい印象の女性だ。42歳で恋人はいない。マドリッドへ行き、仕事一筋で生きてきたのだ。
カルメンの病気の父親の主治医アレハンドロはずっと彼女の事を思い続けていた。妹は冷たい調子の姉を優しく迎える。
が、カルメンの心は硬く閉ざされたままだ。
1976年に起きたアルゼンチンの軍事クーデターでカルメンは夫やアレハンドロたちと捕らえられ、投獄された。そして1年もの間拷問を受け強姦されたのだ。解放されたカルメンは遠いスペインへと逃亡したのだった。

それからカルメンは男性と身体をあわせることはできないのだと、アレハンドロは言う。
男女を雇い、壁越しに二人がセックスする声を聴いて自慰をすることがカルメンの性の捌け口となっていた。

ある時、電話で聞いた若い男の声がカルメンの心に響く。その男はカルメンの友人である愛人紹介業者ロクサーナの「性の商品」であったためにカルメンは彼を雇う。
カルメンはまだ20歳程のグスタボの声が気に入り彼だけを何度も呼ぶことになる。グスタボも壁越しに声を交わすだけで姿を見る事のないカルメンが気になっていく。
やがて二人は恋に落ちてしまうのだった。

ねっとりとした時間を感じるような映像はラテン・南米独特の感覚だ。この中に取り込まれてしまうと他では満足できないようになってしまうのではないか。

ほんの粗筋だけ書きました。後はまた明日。

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2006年06月01日

「ブエナ☆ビスタ☆ソシアル☆クラブ」その2

ブエナ.jpgブエナb.jpg

昨日書ききれなかったのでもう少し。

夏が始まるとこういう音楽が聴きたくなる。仕事が終わった宵に涼しい風を感じながら好きな酒を飲みながらだとまた格別だろう。

クーダー親子がサイドカー付きバイクでハバナの海岸通を走り抜ける。波飛沫が道路にまで激しく打ち寄せてくるのだ。さらわれてしまわないかと驚くが凄くスリリングでうれしくもなる。
そうだ、この音楽はちょうどこの打ち寄せる波のようだ、と言うのだろうな。二人のオートバイは街並みを走る。道路にたむろする人々。行きかう古いアメリカ車、チェ・ゲバラの肖像画が街角にも掲げられている。
街の中の音がたくさん入り込んでいる。車のクラクション、エンジン音、犬の鳴き声、赤ん坊の声などだ。そのために自分がそこにいるかのような気がする。不思議な感覚だ。これはヴェンダースの技術だね。

キューバ音楽はパーカッションが独特だ。全てにリズムがある。ギターを指で叩きながら歌を歌う。どんな楽器でもとてもリズミカルで明るく楽しい。だけど底には哀しい想いが込められている。
スペイン語の響きがさらに心地よい。ギターの音色、キューバ音楽独自の楽器もある。パーカッションも独特で繊細で複雑だ。トランペット、ピアノ、様々な楽器が奏でられている。
軽さと情熱と苦しさが混じった音楽なのだ。

音楽と映像の共同作業は狡い。キューバの町の様子人々の生活を見せられながら音楽を聴いているともうそこに入り込んでしまう。
窓から吹き込んでくる風にカーテンが揺れている。そんな音楽でもある。

ライ・クーダーがその存在に驚き年齢のこともあって必死で集めた老音楽家たち(急がなければいなくなってしまう!)忘れ去られた音楽家たち、と言われる老人達の技術と魂に鳥肌が立つ。ライ・クーダーはこの比ではなかったんだろうな。映画では極めてクールに映っているが絶対凄いものを見つけた喜びで狂喜したに違いないよね。

昨日書いたフェレール以外にもピアノマンのルベーン。私はキューバと言うと体操などのスポーツなんだけど(彼らのジャンプ力の凄さと来たら!)体操の練習をする子供達の体育館の中でルベーンがピアノを弾く場面は楽しい。

そして「生涯現役」を自負するコンパイ・セグンド。渋い重い声を持つ色男だ。落ち着いた声でセカンド・ヴォイスを担当した事からスペイン語のセグンド=セカンドをあだ名に持つらしい。クラリネット・ギターもこなす。

また映画ではその色彩も美しい。赤や黄、緑などのクリアな色合い。老音楽家達も鮮やかなシャツを身につけている。

ピオ・レイバとマヌエル“プンティジータ”リセアが中庭でドミノというゲームをやっていてスタジオに呼ばれる場面も好きだ。まったく、こんな所で音楽を聴いてみたいではないか。

宵闇がせまるとさらに音楽は甘く響いてくるだろう。

そしてカーネギーでのコンサート。今までコンサートシーンはモノクロに近い色だったのにここではカラーになっている。フェレールの真っ赤なジャケット。オマーラの黄色い髪飾り。
何と言ってもルベーンのピアノが素晴らしい。何とも色っぽいではないか。

夜のNYをフェレールが歩く。英語を覚えたい。妻と子供にもここを見せてあげたかった、と言う。
ここでもヴェンダースの映像は雰囲気があって暗くそこにいるかのような気にさせる。

観客の喝采がやまない。フェレールたちの表情が写る。忘れられた存在といわれた音楽家達が蘇った夜だったのだ。
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「ブエナ☆ビスタ☆ソシアル☆クラブ」ヴィム・ヴェンダース

ブエナa.jpgフェレール.jpg

私はこの映画の音楽を表現する術を知らない。音楽的知識もなければ語彙も持たない。それはとても残念な事だ。この映画から流れ出てくるキューバ音楽の魅力を伝えきれないのだから。

この映画に出会ってからまだ1・2年くらいしかたっていない。初めて出会った時はその素晴らしい音楽への驚きと共になぜか昔から聞いていたような不思議な感覚があった。

この映画はギタリストであるライ・クーダーと映画監督ヴィム・ヴェンダースによるドキュメント映画である。従って映像は「ブエナ・ビスタ・ソシアルクラブ」の演奏家である老人達を淡々と写し撮ったものだ。
だのに映画としてドラマティックであり彼らの音楽を堪能させてくれる。

つまり物語は老人達の言葉によって語られるだけなのだが、僅かに知るキューバ革命の歴史などと重ね合わせて彼らの人生を思いつい目頭が熱くなってしまうのは私だけではないと思う。
彼ら老人音楽家達はすでに長い間、忘れ去られた存在であったと言う。“キューバのナット・キング・コール”と映画の中で称されるイブライム・フェレールは「生きていくのに耐える事が多すぎてもう歌はやめよう、何も得られることはないから」とまで思ったと語る。
その彼の歌声を聞くとそんな言葉は信じられない。若くセクシーであり力強く響きあるいは心にしみ込んでくるからだ。
冒頭、彼の歌う「チャン・チャン」の歌声が流れハバナの町並みをクーダー親子がサイドカー付きのバイクで駆けていくシーンは素敵だ。
そして最後、彼らのNY・カーネギーホールでのコンサート。フェレールは真っ赤なジャケット着ているのだがそれが小柄な彼に凄く似合っていてかっこいい。
1927年生まれのフェレールは50年代には人気があったのだが次第に人気がなくなった。1997年ライ・クーダーとキューバの老音楽家達が作ったアルバム「ブエナ・ビスタ・ソシアルクラブ」はグラミー賞を獲得しそれからの彼らは脚光を浴び活躍したと言う事らしい。そしてフェレールは2005年に亡くなった。
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2006年01月22日

「夜になるまえに」

夜になるまえに.jpg

レイナルド・アイレス。1943年キューバで生まれ、貧困の中で育ちやがてキューバ革命と共に作家となるが同性愛者であるために迫害を受け投獄される。ついに彼はアメリカ・ニュー・ヨークへ亡命するがエイズを発病した。

レイナルドの人生はずっと漂流し続けるものだった。生まれてすぐに母親はレイナルドの父親である夫から逃げ出す。レイナルドは幼い時から教師に詩人の才覚を見出されるが祖父は逃げ出すように別の町に移り住むがまだ少年であるレイナルドは単身家を飛び出す(途中農夫に車に乗せてもらうが、これをショーン・ペンがやっている)
20歳で図書館職員となりまた念願の小説家にもなる。彼は幼い時から同性愛者である。そのためにますます彼は漂流し続けることになる。カストロ政権化では同性愛者というだけで投獄の対象となる。一度捕まった彼は役人の目を盗んで海へ飛び込み逃亡する。そして友人にタイヤのチューブをもらってフロリダへと文字通り漂流しようとして失敗しハバナをさまよう。
彼の小説も彼の手を離れフランスからの旅行者に委ねられて国外で出版される。
ついに投獄された彼は物書きとしての才能を買われ受刑者たちから手紙の代筆を次々と頼まれタバコを儲ける。そしてそのタバコを代償として小説を持ち出すことを運び屋に頼むのだ。この運び屋の女装男をジョニー・デップが演じている。これはさすがにジョニー・デップらしい打ち込みよう。素晴らしいグラマラス・クイーンでありますよ。
そして入れられる独房の恐怖。こんなにぞっとする独房があるなんて。縦にも横にも身体をまっすぐに入れられないのだ。目の前は石の壁。入れられたものは泥の上をのた打ち回って体が痙攣しない内に身動きをせねば気が狂ってしまうだろう。私は見ただけでエコノミー症候群に陥ってしまった。血の循環がぬるいもんで手足が伸ばせないと死んでしまう。
そしてレイナルドに反省を促す中尉役で再びジョニー・デップ登場。あまりの美貌にのけぞる。レイナルドも性器をさわる中尉を想像して恍惚となる。

やっとのことで刑務所から出られたレイナルドは仲間と気球に乗って脱出を図るがこれはスパイの男に乗っとられる(が、彼も落っこちる)

今度はカストロが「革命家の魂を持たないものは出て行け!」という指令を出し、つまり同性愛者、精神病者、犯罪者だと申告すれば出国できるというのだ。罠か?だがレイナルドは同性愛者だと申告して出国する事になる。出国の際、捕まる者たちを見たレイナルドはすかさずパスポートの自分の名前にペンで点を書き入れた。アレナスをアリナスに書き換えて逮捕者名簿を見る役人から出国の許可を得たのだ。

ニュー・ヨークへついた彼は降る雪に大喜びする。が、やっと自由を手に入れた彼を襲ったのはエイズと言う病魔だった。

苦しい筈のキューバだが、明るい太陽・青い海・音楽・踊り・迫害を受ける運命とは言え、ゲイ仲間達との楽しげな交流。なんていいところなんだろう、と気軽に思ってはいけないのか。
やっと逃げ延びたニュー・ヨークでの生活の描写は殆どない。結局ここでもレイナルドの作家活動は制限されている。漂流し続けても彼の生活に自由と言うものはないのだ。

レイナルドの恋物語はこの中では希薄でしかない。唯一ほんのり彼への愛情を感じさせるのはストレートであるラサロだけだ。彼はレイナルドとニュー・ヨークで住む事になるが恋人ではない。そのためにレイナルドは苛立つが真に頼れるのはラサロだけなのだ。「本当の男と思えるのは君だけだ」とレイナルドは言う。
苛立って「出て行け」とラサロにあたるレイナルドだがラサロがやってくるのを窓から見つけた時、植木鉢のバラが開いている。単純なほどの愛情の演出だ。
またレイナルドを苦しめたキューバからアメリカへと運ぶ小さな船の名前が「聖ラサロ」となっていた。

監督:ジュリアン・シュナーベル 「バスキア」
脚色:カニンガム・オキーフ、ラサロ・ゴメス・カリレス、ジュリアン・シュナーベル製作:ジョン・キリク
音楽:カーター・バーウェル(特別挿入曲 ルー・リード&ローリー・アンダーソン)
プロダクション・デザイナー:サルバドール・パーラ

出演:ハビエル・バルデム、オリヴィエ・マルティネス、アンドレア・ディ・ステファノ
ジョニー・デップ、ショーン・ペン、マイケル・ウィンコット
2000年製作


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2006年01月02日

「バッド・エデュケーション」ペドロ・アルモドバル

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「モーターサイクル・ダイアリーズ」でチェ・ゲバラの爽やかな青年期を演じたガエル・ガルシア・ベルナルが、今度は妖しい魅力で男を惑わせる可愛い青年を演じております・

クールな映画監督役のフェレ・マルチネスを好きになる方も多いと思うけど、やっぱり私としてはガエルがよかった。

「モーターサイクル・ダイアリーズ」では気づかなかったんだけど、ガエルは割りと小柄なのだ。そしていかにも可愛い青年の顔をして中年男を手玉にとり、監督も騙してしまう小悪魔な男をやってしまうんだからうれしい。
女装姿もキュートで申し分なし。

スランプに陥り新作映画のストーリー作りに手間取っている若き映画監督エンリケの元に親友だったイグナシオと名乗る男が映画のアイディアを持ってやってくる。そしてその映画の役が欲しい、と言うのだ。持ってきた筋書きというのはかつて二人がカソリックの寄宿学校にいた頃のこと、ふたりが愛し合っていた事(子供ですが)やイグナシオに言い寄って身体を求めた神父についての話であった。興味を持ったエンリケだが、なぜか親友イグナシオに不信感を持つ。やがてその不信感が現実になり、それ以上にややこしく運命の糸が絡まっていく。

イグナシオと名乗ってやってきた男は本当はその弟・ホアンでそれをガエルが演じているのだが、女装姿で舞台に立ち「キサス・キサス・キサス」を歌ったり、寄宿学校時代が語られたり、映画撮影風景が入り込んだり。突然、神父だった男が違う名前で出てきたり、物語が錯綜して楽しいのだよ。
ペドロ・アルモドバル監督作品は他にはまだ「トーク・トゥ・ハー」しか観てませんがやはり面白い映画でした。そんなに複雑でワケわからんと言うほどではないが、重なり合うような物語の組み立て方が大好きなのだ。

この作品はペドロ・アルモドバル監督の半自伝的作品ということでこんなに官能的な体験をされているとはさすが。
「トーク・トゥ・ハー」でベニグノを熱演したハビエル・カマラが今回はドラッグクイーンな踊り子(?)役でまた熱演。前回に続き人々の怖気を誘うでしょうか。

監督:ペドロ・アルモドバル 出演:ガエル・ガルシア・ベルナル、フェレ・マルチネス、ハビエル・カマラ 2004年製作
posted by フェイユイ at 21:28| Comment(2) | TrackBack(2) | 中南米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年06月12日

「モーターサイクルダイアリーズ」

モーターさいくる2.jpgポデローサ.jpgロドリゴ.jpgガエル.jpgガエル2.jpg

少し前に「絶対観たい映画としてあげていた「モーターサイクルダイアリーズ」やっとDVDにて観れました。

ネタバレです。

いまだに多くに人々に憧れ・尊敬の思いをいだかせている有名な革命家・チェ・ゲバラ(ガエル・ガルシア・ベルナル)の若き日の旅の物語である。
相棒は29歳の生化学者アルベルト・グラナード(ロドリゴ・デ・ラ・セルナ)、二人は名前だけは勇ましいポデローサ(怪力)号と言う中古のノートン500にまたがって南米大陸1万キロを行くのだ。今にも壊れそうなぼろ・バイクはまさしくすぐにボロボロになり、「モーターサイクルダイアリーズ」と言うタイトルはどこへやら、歩いたり、様々な乗り物に乗せてもらっての旅になる。

映画は「偉業の物語ではない」という通り二人の若者の青春を描いたものであって、後のチェ・ゲバラが語られているのではない。が、まだ子供のような笑顔のガエル演じるゲバラが未知の南米大陸の現状(貧しい人々・病気に苦しむ人々・圧政に苦しむ人々)を見て、次第に自分のすべきことは何なのか(この映画の中でまだ答えを見つけてはいないのだが)を感じていくのだ。

だが、この作品はとても明るいタッチで描かれており、例えば、チェ・ゲバラはダンスが苦手だったらしく、途中立ち寄ったハンセン氏病療養所で(ゲバラはハンセン氏病の専門医学を学んでいたらしい)ふたりは感染はしないと、手袋着用の規則を無視して患者たちと接し、次第に信頼を得ていく。楽しいサッカーゲームをし、そしてお別れのパーティでダンスの上手い相棒と違いゲバラはタンゴとマンボの区別もつかず女の子や他の人から大笑いされてしまう(ラテンの国でそれはかなりまずいことでしょうね!)それで二人は療養所の人たちから旅行用にと手作りのボートをもらうのだが、そこには船の名前が「タンゴ・マンボ」と書かれていた。

そしてお別れをしなければ、とゲバラは夜中のパーティ会場の広い川向こうにある病気の人たちが隔離されている島まで泳いで渡るのだ。この場面は淡々とした物語展開の中でもとても緊張し、高揚感を覚えるところだ。「無理だ。やめろ」と言う声が次第に「がんばれ、がんばれ」という掛け声に変わっていく。ゲバラはひどい喘息の持病に苦しんでいる身なのだが、あえぎながらも向こう岸に何とかたどり着く。向こう岸でかなりもがいて泳ぎ着くゲバラを抱きかかえて迎える病気の人々。
真っ暗な中、急な流れの川をたった一人喘息の身体で泳いでいくチェ・ゲバラの行動はまさしくこの後の彼の姿を暗示しているのだろう。

とはいえ、やがて革命家になるゲバラの物語ということでなくとも、ふたりの若者のまだ自分たちには解らない未来をみつめるために行くロード・ムービーとして観てもいいのではないだろうか。ボロのポデローサ号に乗って南米大陸を失踪していく二人の姿を観ていてそれだけでもちょっとくるものがあった私です。

出演 ガエル・ガルシア・ベルナル ロドリゴ・デ・ラ・セルナ ミア・マエストロ

監督 ウォルター・サレス

製作総指揮 ロバート・レッドフォード ポール・ウェブスター  ハノ・ヒュ−ス

イギリス・アメリカ合作 2004年制作
posted by フェイユイ at 23:50| Comment(2) | TrackBack(0) | 中南米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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